
「韓国は教育熱がすごい国らしい」。そんなイメージを持つ人は多いだろう。しかし今回、韓国政府が規制に乗り出したのは、一部の富裕層だけが夢中になる英才教育ではなかった。3歳になる前から英語塾の準備を始め、「4歳考試」と呼ばれる幼児の入塾競争が社会現象になるほど、ごく普通の家庭まで巻き込まれていたのだ。国はなぜ、ここにきてブレーキを踏んだのだろうか。
積み木より英単語…国が「そこまで」と止めた幼児教育
受験と聞けば、多くの人は高校や大学を思い浮かべる。ところが韓国では、そのスタートラインが幼児まで下りてきていた。日本経済新聞によると、人気の英語幼稚園へ入るため、2歳頃から英語教材を取り寄せ、自宅学習を始める家庭も珍しくないという。その過熱ぶりから生まれた俗称が”4歳考試”だ。正式な試験制度ではないが、幼児向け英語塾や英語幼稚園への入園競争を象徴する言葉として広く知られるようになった。入園後も競争は終わらない。朝から午後まで英語中心のカリキュラムを受け、その後は水泳やピアノ、テコンドーなどの習い事へ向かう。帰宅後には宿題をこなし、施設によっては定期テストや順位付けまで行われるという。
こうした状況を受け、韓国政府は2026年10月から、幼児向け塾の入塾試験やレベル分け試験の禁止などを盛り込んだ改正制度を施行する。あわせて、3歳未満への教科中心の詰め込み教育や順位付けを規制する。止めようとしたのは英語教育そのものではない。発達段階に見合わない過度な幼児教育へ、国が法律というブレーキをかけようとしているのである。
4歳考試は一部の富裕層ではなかった 普通の家庭まで広がった競争
このニュースを聞いて、「港区の教育ママのような話だろう」と感じた人もいるかもしれない。しかし、そこが日本人にとって最も驚くポイントだ。韓国で問題になったのは、一部の富裕層だけが先走った話ではない。日本経済新聞が紹介したソウル市の30代の母親は、「周囲のコミュニティーから取り残されれば、将来我が子が後れをとることになりかねない」と話している。つまり、教育熱心な家庭だけではなく、ごく普通の家庭まで「やらなければ不安」という空気に包まれていたのである。
韓国教育部の調査では、英語幼稚園の平均月謝は約154万5000ウォン、日本円で約15万円を超える。ソウル・江南地区では月250万ウォンを超える施設も珍しくない。それでも希望者は後を絶たない。誰も競争が好きで始めたわけではない。それでも隣の子が走り始めると、自分の子だけ立ち止まらせることは難しい。競争のアクセルを踏んでいたのは子どもではなく、不安を抱えた大人たちだったのかもしれない。
なぜ韓国はここまで競争社会になったのか
では、なぜここまで教育競争が激しくなったのだろうか。背景には、韓国の強い学歴社会と急速な経済成長があると指摘されている。資源に乏しい韓国では、人材育成が国の競争力そのものと考えられ、有名大学への進学や財閥企業への就職が人生を大きく左右してきた。英語力も海外進学やグローバル企業への就職を見据えた将来への投資と考えられ、幼児期から先取り学習を進める家庭が増えていった。
一方で、この競争社会はサムスンや現代自動車、K-POP、韓国ドラマ、韓国コスメなど、世界市場で存在感を放つ産業を生み出した原動力になったという見方もある。挑戦するスピードや世界を相手に勝負する姿勢は、日本が学ぶべき点として語られることも少なくない。だからこそ、今回の規制は興味深い。競争によって成長してきた国が、「幼児まで競争させるのは行き過ぎだ」と判断し、自ら法規制へ踏み切ったのである。競争は成長を生む一方で、どこかで線を引かなければならない。その境界線が、3歳未満だったということなのだろう。
日本は本当に他人事なのか
もちろん、日本にも幼児英語教室や早期教育、お受験を意識した家庭はある。ただ、それは今のところ都市部や一部の高所得層を中心とした選択であり、社会全体の常識とは言い難い。韓国で異例なのは、「やらない」という選択そのものが不安になってしまった点にある。子どもの可能性を広げたいという思いが、いつしか「周りより遅れたくない」という焦りへ変わり、その空気が普通の家庭まで広がってしまった。日本も高度経済成長期には受験戦争や詰め込み教育が社会問題となり、その後、”ゆとり教育”や入試改革を経て教育のあり方を模索してきた歴史がある。そして今、日韓はともに少子化という共通の課題を抱えている。
韓国政府が今回止めようとしているのは、英語ではない。幼児教育そのものでもない。「うちの子だけ遅れたらどうしよう」という親たちの不安が積み重なり、誰も降りられなくなった幼児教育競争へ、法律というブレーキをかけようとしているのだ。法律は試験をなくすことはできるかもしれない。しかし、競争の空気まで変えられるかどうかは、まだ誰にも分からない。このニュースは韓国だけの話ではなく、「競争はどこまで必要なのか」という問いを、日本にも静かに投げかけている。



