
祭壇には、美輪明宏さんが好きだった黄色いバラが飾られ、棺には長く応援してきたファンからの手紙が納められたという。最後に伝えた言葉は「ありがとう」。歌手で俳優の美輪明宏さんが6月20日、老衰のため亡くなった。91歳だった。『ヨイトマケの唄』で働く人の痛みと誇りを歌い、『黒蜥蜴』『毛皮のマリー』で舞台の常識を揺さぶり、『もののけ姫』『ハウルの動く城』では声だけで物語の奥行きを変えた人の別れは、静かな発表でありながら、昭和から令和まで続いた一つの文化の幕が下りたことを知らせるものだった。
美輪明宏さん死去 最後に残した「ありがとう」と黄色いバラ
オフィスミワは公式サイトで、美輪明宏さんが6月20日午前9時30分、老衰のため91歳で永眠したと発表した。葬儀・告別式は本人の意向により近親者のみで執り行われ、お別れ会や偲ぶ会の予定はない。美輪さんはこの一年、高齢のため仕事をセーブし、体力の回復に努めていた。約3カ月前に体調を崩してからは自宅で静養し、最後は「ありがとう」と一言、感謝の言葉を伝えて静かに目を閉じたという。金色の髪、濃いメイク、舞台の奥まで届く声、テレビ画面越しにも伝わるただならぬ気配を思い浮かべる人ほど、その最期の静けさに胸をつかまれる。大きな演出ではなく、黄色いバラとファンの手紙、そして短い感謝の言葉。派手な芸能人生を閉じる場面としては驚くほど簡素で、それでいて、誰よりも言葉の重みを知っていた美輪さんらしい幕引きでもあった。
銀巴里から現れた16歳の歌手 「メケメケ」が壊した美の常識
美輪さんの歩みは、最初から日本の芸能界の枠に収まりきらなかった。小学生の頃から声楽を学び、国立音楽大学附属高校を中退して16歳でプロ歌手として活動を始めると、クラシック、シャンソン、タンゴ、ラテン、ジャズを歌い、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に頭角を現した。1957年には「メケメケ」が大ヒットし、中性的な美貌、ファッション、声、立ち居振る舞いで、当時の人々が無意識に持っていた性別や美しさの枠を正面から壊してみせた。今でこそ多様性という言葉は日常的に使われるが、美輪さんはその言葉が広まるはるか前から、自分の存在そのもので社会の視線を揺さぶっていた。しかも、ただ異彩を放つだけでは終わらない。自ら詞を書き、曲を作り、歌い、演じ、語る。そのすべてを一人で引き受けた美輪明宏という表現者は、早い段階から「何者か」に分類されることを拒んでいた。
『ヨイトマケの唄』と紅白歌合戦 働く人の尊厳を歌った数分間
その象徴が『ヨイトマケの唄』である。働く母の姿、貧しさ、嘲笑、子どものまなざし。そこにあるのは、懐かしい昭和の風景ではなく、人が人を見下す空気の冷たさと、それでも折れずに生きる人の背中だ。汗や泥や涙のにおいを消さず、働く人の誇りを真ん中に置いたこの曲は、時代が変わっても古びない。貧しさの形は変わっても、誰かを下に見て安心する視線は、今の社会にも残っているからだ。2012年のNHK紅白歌合戦で、77歳にして初出場した美輪さんがこの曲を歌ったとき、華やかな年末番組の空気は一変した。ほぼ黒一色の舞台に立ち、声量を誇るのではなく、人生をそのまま吐き出すように歌う姿。あの数分間、画面の向こうに置かれたのは名曲ではなく、働く人の尊厳を踏みにじってきた社会そのものだった。
『黒蜥蜴』『毛皮のマリー』 性別も時代も越えた舞台の怪物
舞台の美輪さんもまた、観客に忘れられない記憶を残した。寺山修司の「演劇実験室◎天井棧敷」の旗揚げ公演「青森県のせむし男」に参加し、「毛皮のマリー」に主演。さらに三島由紀夫に熱望され、江戸川乱歩原作の「黒蜥蜴」を上演した。男性か女性か、美しいのか怖いのか、現実なのか幻なのか、観客が安心して分類しようとした瞬間、その枠が崩れる。美輪さんは役を演じるだけの俳優ではなく、作品そのものの温度を変えてしまう人だった。「黒蜥蜴」は1990年代以降も再演を重ね、明智小五郎役に髙嶋政宏氏や木村彰吾氏らを迎えながら、江戸川乱歩と三島由紀夫の美学を絢爛豪華な舞台として更新し続けた。「毛皮のマリー」も2001年に美輪さん自身が初演出し、美少年・欣也役に及川光博氏を迎えて全国公演を行うなど、退廃美、母性、幻想、孤独が渦を巻く世界を、観客の目の前に突きつけた。
海外公演と『愛の讃歌』 世界に届いた美輪明宏の美学
美輪さんの表現は、日本国内だけに閉じなかった。1984年にフランス、1987年には再びフランス、スペイン、ドイツに招かれてコンサートツアーを行い、ル・モンド、リベラシオンをはじめとする新聞や雑誌にも紹介された。ジャン・コクトー作「双頭の鷲」ではエリザベート王妃を演じ、読売演劇大賞優秀賞を受賞。デュマ・フィス原作の「椿姫」、エディット・ピアフの生涯を描いた「愛の讃歌」も繰り返し上演し、歌、演技、演出、美術、照明までを含めて、美輪明宏の世界を築き上げた。近年も「白呪」の再発売、「BRAVA DIVA MIWA」、「愛の讃歌〜エディット・ピアフに寄せて〜」、「美輪明宏ベストセレクション」、10枚組CDボックス「美輪明宏大全集」など、長い活動を集成する作品を世に出してきた。過去の名曲を懐かしむだけではなく、いま目の前にいる観客へ向けてもう一度生き直させる。それが美輪さんの舞台であり、歌だった。
長崎の原爆体験と直筆メッセージ 「愛」が軽く聞こえなかった理由
美輪さんの言葉が軽くならなかったのは、長崎での原爆体験を背負っていたからでもある。10歳で原爆を体験し、戦争が人の暮らしを壊し、命を奪い、昨日まであった日常を一瞬で焼き払うことを子どもの体で知った。だから、美輪さんが語る愛や平和は、きれいな標語ではなく、生き残った人間の声として響いた。公式サイトでは、生前にしたためた直筆メッセージも公開され、そこには、この世を生き抜く武器は愛の言葉であり、この世の問題を解く鍵は愛だという趣旨の言葉が記されている。美輪さんの言う愛は、甘い慰めではない。人を傷つけないこと、弱い立場の人を笑わないこと、自分と違う人を雑に扱わないこと。言葉にすれば簡単だが、現実の社会ではすぐに踏みつけられるものばかりであり、美輪さんはそれを何度も、しつこいほどに言い続けた。
『紫の履歴書』『人生ノート』 作家・講演者として刺した言葉
作家や講演者としての存在も大きかった。自伝的著作「紫の履歴書」は長く読み継がれ、「人生ノート」は50万部のベストセラーとなった。「天声美語」「ああ正負の法則」「愛の話 幸福の話」「戦争と平和 愛のメッセージ」「乙女の教室」「愛と美の法則」など、人生、美意識、幸福、戦争、平和をめぐる本も多い。美輪さんの本が読まれたのは、やさしい言葉で包み込むだけではなかったからだ。悩む人の痛みを受け止めながら、ときには甘さを断ち、自分を粗末にする人には厳しく、他人を傷つける人にはさらに厳しい。テレビや講演でも同じだった。軽妙な話術の奥に、人間の弱さや醜さを見抜く冷静さがあり、まだ自分の生き方を立て直せると思わせる力があった。
なぜ美輪明宏さんは「亡くならない人」に見えたのか
訃報が伝えられると、ネット上には追悼の声が相次いだ。舞台や講演会に足を運んだ人、著書に救われた人、紅白の『ヨイトマケの唄』を忘れられない人、偶然見かけた姿に圧倒された人。それぞれの中に、それぞれの美輪明宏さんがいた。とりわけ印象的なのは、「美輪さんだけは亡くならないと思っていた」という受け止めだ。人は誰でも死を迎える。それでも美輪さんには、年齢や肉体の衰えを超えた不思議な存在感があった。昭和のシャンソン喫茶から、アングラ演劇、歌謡曲、紅白歌合戦、ジブリ映画、テレビの人生相談まで、日本の文化のいくつもの扉を開け、世代ごとに違う入口を持った人だったからこそ、その死はひとりの芸能人の訃報では済まない。
美輪明宏さんが残した「愛」は、いまほど重い
美輪明宏さんは91年の生涯を閉じた。最後の言葉は「ありがとう」。祭壇には黄色いバラが飾られ、棺にはファンの手紙が納められた。あれほど強い言葉を持った人が、最後に選んだのは感謝だった。その静けさが、かえって胸に残る。美輪さんが残した愛という言葉は、耳ざわりのいい飾りではない。人を傷つける言葉があふれ、誰かを笑いものにすることが娯楽になり、強い側に立ったつもりで他人を踏む人が増えた時代に、その言葉はむしろ重くなる。美輪明宏さんを悼むなら、名曲を懐かしむだけでは足りないだろう。



