ログイン
ログイン
会員登録
会員登録
お問合せ
お問合せ
MENU

法人のサステナビリティ情報を紹介するWEBメディア coki

旭川女子高校生殺害「懲役27年は軽すぎる」内田梨瑚被告判決に遺族が突きつけた法の限界

コラム&ニュース コラム
リンクをコピー
旭川女子高校生殺害事件
DALLーEで作成

北海道旭川市で17歳の女子高校生が橋から転落して死亡した事件で、旭川地裁は内田梨瑚被告に懲役27年を言い渡した。求刑通りの判決だったが、法廷には怒号が響き、遺族は「命を失った娘への罪が、こんなに軽いものなのか」とコメントを発表した。裁判は終わっても、奪われた命は戻らない。27年という数字が、多くの人の胸に引っかかった理由はそこにある。

 

判決の瞬間、法廷に残った違和感

2024年4月、旭川市の神居古潭で、留萌市に住む当時17歳の女子高校生が神居大橋から石狩川に転落して死亡した。内田梨瑚被告は、監禁、殺人、不同意わいせつ致死の罪に問われ、2026年6月22日、旭川地裁で懲役27年の判決を受けた。検察側の求刑と同じ年数だった。

裁判では、内田被告が事件を主導したのか、被害者を橋から転落させた行為にどこまで関わったのか、殺意があったのかが争われた。内田被告は初公判で、殺意はなく、橋から落下させていないと主張した。一方、検察側は、被害者の人格と尊厳を踏みにじった犯行だと指摘し、主犯として最も重い責任を負うべきだと訴えていた。

判決で示された27年は、法律の枠内では重い刑なのだろう。だが、事件の中身を知るほど、その数字は冷たく見える。17歳の少女が、恐怖と屈辱の果てに命を落とした。これから先にあったはずの進学、仕事、恋愛、家族、何でもない日常まで、すべて奪われた。その現実の前で、27年後には被告が社会に戻る可能性があるという事実は、あまりにも残酷な差として迫ってくる。

 

遺族コメントににじんだ、怒りより深いもの

判決後、被害者の遺族はコメントを発表した。そこには「残忍で想像を絶するほどの苦痛を受けて命を失った娘への罪が、こんなに軽いものなのかと思っています」と記されていた。

この言葉は、単なる量刑への不満ではない。娘を奪われた家族が、判決の日にもう一度、喪失を突きつけられた痛みである。事件から約2年が経っても、家族の時間が事件前に戻ることはない。判決が出たからといって、朝起きたときの苦しさや、ふとした瞬間に娘の不在を思い知らされる日々が終わるわけでもない。

遺族は、被害者のPayPay残高約10万円が使われたことにも触れ、強盗殺人罪が適用されてもおかしくないとの思いを示した。さらに、内田被告は刑期を終えれば自由な生活を送り、新しい人生を歩むことができる一方、娘の人生は戻らないと訴えている。ここにあるのは、加害者をただ憎む言葉ではない。法治国家である以上、遺族が同じ苦しみを返すことはできない。だからこそ、裁判所に、法律に、娘の命がどれほど重かったのかを示してほしかった。その願いが届かなかったように感じたからこそ、「軽い」という言葉になったのだろう。

遺族は、有期刑の上限と無期懲役の差が大きすぎるとして、特に殺人罪については上限を引き上げる法改正を求めている。これは感情に任せた叫びではない。今の制度では、被害者側が背負わされた現実を受け止めきれていないのではないかという、切実な訴えである。

 

法廷に響いた怒号と、飲み込めなかった27年

判決後、法廷では男が廷内に侵入し、「この判決は報われねぇぞ」「死刑やろうが」などと叫ぶ異例の事態が起きた。男は係員に取り押さえられ、建造物侵入の疑いで現行犯逮捕された。法廷に乱入し、怒号を上げる行為は認められない。どれほど判決に納得できなくても、裁判の場を壊していい理由にはならない。そこを曖昧にすれば、怒りの強さだけが正しさを名乗る空気になってしまう。

それでも、あの怒号に胸の奥がざわついた人は多かっただろう。ネット上にも、乱入は駄目だが気持ちはわかる、という声が並んだ。被害者がどれほど追い詰められ、どれほど怖かったかを思えば、27年という刑期だけが妙に乾いた数字として浮かび上がる。橋の上で逃げ場を失った少女の恐怖と、判決で示された年数。その間にある隔たりを、多くの人が飲み込めなかったのだ。

怒りが強い事件では、言葉も荒くなりやすい。被告への憎悪が膨らみ、法を越えた報復感情に傾けば、問題の焦点はずれていく。だが、今回これほど世論が揺れたのは、単に事件が残虐だったからではない。被害者の命と尊厳が、司法の中で十分に扱われたように見えなかったからである。

 

裁判員の悔いが示した、司法との距離

判決後に取材に応じた裁判員からは、内田被告の供述には整理できないほど矛盾点があったとの受け止めや、共犯者の証言の方が信ぴょう性があると認識したという趣旨の発言があった。さらに、被害者の父親の言葉に触れ、「申し訳ない」と悔やむ裁判員もいたという。

この「申し訳ない」という言葉は重い。裁判員制度は、市民感覚を司法に反映させるために導入された制度である。ところが、その場にいた市民自身が、遺族の思いと判決の間にある距離を感じ、苦しんでいた。法律は証拠と条文、過去の量刑との均衡で動く。感情だけで刑を決めることはできない。だが、裁判員が悔やむほどの隔たりが残ったなら、その隔たりを制度の外へ追いやって済ませるわけにはいかない。

今回の判決をめぐっては、一人を殺害した事件では死刑や無期懲役になりにくいという量刑感覚への疑問も広がった。もちろん、刑罰は事件ごとの事情に応じて判断される。しかし、被害者が受けた苦痛、犯行の残虐性、遺族の喪失感が強く伝わるほど、現行の有期刑上限は市民感覚から遠く見える。遺族が求めた法改正は、この判決だけへの不満ではなく、凶悪犯罪に向き合う制度そのものへの問いかけになっている。

 

27年の先に残る時間、戻らない17歳の人生

どれほど重い判決が出ても、失われた命は戻らない。だからこそ、量刑は単なる年数では済まない。社会がその命をどれほど重く扱ったのか、遺族は判決の数字にそれを見るしかない。

内田梨瑚被告への懲役27年判決は、現行法の枠内で出された結論である。だが、遺族にとっては、娘の人生を奪われた現実に比べて、あまりにも軽く映った。法廷乱入は認められない。ネット上の怒りにも、行き過ぎた言葉はある。それでも、多くの人がこの判決に引っかかった理由ははっきりしている。奪われた側には未来がなく、奪った側には刑期の先が残るからだ。

法は冷静でなければならない。だが、冷静さを理由に、被害者の痛みまで薄めてしまうなら、それはただの鈍さである。17歳の命が消えた事件に対して、27年という数字を前に社会がざわついたのは、感情的すぎるからではない。人の命の重さに、まだ反応できる感覚が残っているからだ。

 

Tags

ライター:

Webライター。きれいごとだけでは済まない現実を、少し距離を置いて綴っています。

関連記事

タグ

To Top