
神奈川県逗子市のマンション敷地内で斜面が崩落し、登校中の県立高校3年生の女子生徒(当時18歳)が土砂に巻き込まれ命を落とした痛ましい事故から6年。その悲劇を「二度と繰り返してはならない」と、ひとりの高齢女性が全財産を投げ打って立ち上がっていたことが明らかになり、日本中に感動の輪が広がっている。
今年5月、逗子市役所で感謝状を受け取ったのは、昨年亡くなった同市在住の主婦・川上米子さん(享年89)の遺言執行者を務める司法書士の小保内洋子さんだ。川上さんが遺言状に託し、市に寄付された額は、約1億8000万円にのぼる。
巨額の寄付の裏に隠された川上さんの愛情深い人生とともに、この寄付が直面する日本の防災のリアルについて深掘りする。
行政を阻む「民有地の壁」と抜け落ちる防災
川上さんの遺志を継ぎ、逗子市はこの寄付金を崖崩れ対策に充てると発表した。しかし、日本の防災システムには、簡単には乗り越えられない大きな壁が存在する。それが民有地と行政の壁である。
防災行政に詳しい都市計画の専門家は、2020年に起きた逗子市の崩落事故の本質的な課題を次のように指摘する。
死亡事故が起きた現場は、公道ではなくマンション敷地内の斜面、つまり民有地であった。原則として、個人の資産である民有地の整備に税金などの公金を投入することは、地方自治法が定める公金支出のルールにより厳しく制限されている。行政は危険な崖を把握していても、所有者に対して指導や勧告を行うのが限界であり、勝手に工事を進めることはできないのだ。
しかし、土砂崩れは公有地と民有地の境界などお構いなしに発生し、罪のない通行人の命を奪う。所有者に工事費を負担する経済力がなければ、危険な崖は放置され続けるという致命的なジレンマを、日本中の自治体が抱えている。
専門家は、川上さんの使途を明確にした寄付金が、法的に身動きが取りづらい自治体にとって、通常の税収では踏み込めない民有地の崖地対策を支援する独自の補助金制度などを創設するための、突破口になり得ると語る。
1億8000万円で救える「リアルな数字」
では、川上さんが託した1億8000万円という途方もない金額は、実際の土木工事においてどれほどの規模の命を守る盾となるのだろうか。
斜面崩落を防ぐための擁壁(ようへき)工事や、斜面にコンクリートを吹き付けて鉄筋を打ち込むアンカー工事などは、非常にコストがかかる。立地や地盤の状況にもよるが、大規模で危険度の高い崖を1カ所完全に補強しようとすれば、数千万円から、場合によっては1億円を優に超える費用が必要になるという。
つまり、1億8000万円という金額であっても、市内にあるすべての危険箇所を魔法のようにゼロにできるわけではない。しかし、行政の予算不足で後回しにされていた「最も崩落リスクが高く、かつ人通りが多い致命的な危険箇所」を確実に2〜3カ所、抜本的に改修することができる。あるいは、この資金を元手に「危険崖地対策の特別補助金枠」を市が独自に設定すれば、費用の壁で工事に踏み切れなかった数十件の民有地オーナーの背中を押し、連鎖的に街全体の安全性を底上げすることも可能となる。
一個人からの寄付として、この金額は地方自治体の防災計画のスケジュールを数年単位で前倒しにできるほどの、リアルな力を持ちうるとのことだ。
孤独のなかで未来の命を想う
川上さんは若い頃、都内から逗子市に引っ越し、東京都内の私立大学理事を務めた夫と、会社員の娘との3人で仲睦まじく暮らしていた。しかし、2020年に愛娘ががんの再発により先立ってしまう。奇しくも、逗子市で18歳の女子高生が斜面崩落の犠牲になったのと同じ年のことだった。さらに翌年には最愛の夫も他界。身寄りをすべて失った川上さんは、深い孤独のなかで、夫と娘が遺した財産を含めた全額を市へ寄付する決断を下した。
カナロコの報道によると、30年近く彼女が通い続けた美容室の店長は、「『若い命が失われるのはつらい』と話していました。ご自身の娘さんを亡くされたばかりで、事故で亡くなった女子高生の姿が重なって見えていたのかもしれません」と語っている。
行政の制度の隙間で起きる悲劇を防ぐため、そして未来の若者の命を守るため。川上米子さんというひとりの女性の深い愛情と約1億8000万円という盾は、逗子市の崖だけではなく、法制度の壁という障害をも切り崩すことができるかもしれない。



