
東京新聞の望月衣塑子記者と思想家・内田樹氏の対談本が、発売から2カ月足らずで回収される事態となった。問題となったのは、高校生記者・川中だいじさんの経歴だ。「老害」と呼ばれた、学校の教師に新聞を剝がされた、外務省への取材を試みたが、たらい回しにされた。書籍では、川中さんが数々の困難に直面したように紹介されていたが、こうしたエピソードには事実と異なる内容が含まれていた。川中さん本人の抗議を受け、朝日新聞出版は11月1日、販売中止と回収を発表。なぜ実在する高校生の経験が、事実とは異なる物語になってしまったのか。
望月衣塑子記者の対談本、朝日新聞出版が販売中止・回収へ
問題の書籍は、朝日新聞出版が2026年9月11日に発売した朝日新書『常識なき世界を生き延びるために』。東京新聞の望月衣塑子記者と、思想家で神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏による対談をまとめた一冊だ。政治や社会、メディアの現状を論じ、日本が抱える課題に切り込んでいる。朝日新聞出版は11月1日、電子版を含めた出荷・販売の中止を決定。書店で販売されている紙の本について回収手続きを進め、電子書籍も各ストアに販売中止を要請している。共同通信によると、出版社は編集段階での点検が不十分だったことを認め、原因の調査と書籍全体の再点検を進める方針だ。
発端となったのは、書籍で紹介された「日本中学生新聞」創刊者、川中だいじさんからの指摘だった。川中さんは2023年、G7広島サミットの取材を目指して「日本中学生新聞」を創刊。中学生の立場から政治家らへの取材に取り組み、現在は高校生として活動している。2026年3月には著書『こちら日本中学生新聞』も出版した。今回、朝日新聞出版が訂正したのは、川中さんの学校生活や取材活動、新聞創刊の経緯に関する複数の記述だった。単なる言葉の使い間違いではなく、本人の行動や活動の動機を違った形で伝える内容が含まれていた。
「老害」「教師に新聞を剝がされた」実際とは異なるエピソード
書籍には、川中さんが周囲の子どもたちから「老害」と呼ばれていたという趣旨の記述があった。政治や社会に積極的に関心を寄せる少年が、同世代から反発を受けているように読める内容だ。しかし、朝日新聞出版は誤りを認め、この部分を削除。さらに、川中さんの行動が望月記者自身の息子の話として記されていた箇所も訂正した。川中さん本人の経験を紹介する場面で、誰の話なのかという基本的な部分まで取り違えていたことになる。
さらに、書籍には川中さんが小学校で保護者に投票を呼びかける新聞を掲示したところ、教師に剝がされたという話が登場する。日本が核兵器禁止条約を批准していないことに疑問を持ち、外務省への取材を試みたものの、たらい回しにされ、記者でなければ取材できないと言われたことが「日本中学生新聞」創刊につながったとも説明されていた。ところが、朝日新聞出版が公表した訂正後の内容は異なる。川中さんは小学生の頃から学校の新聞委員会に所属し、国政選挙の際には各政党の政策などを壁新聞で紹介し、投票を呼びかけていた。そして2023年5月、G7広島サミットへの取材申請をするために新聞を創刊したという。書籍では、学校や行政機関から理不尽な扱いを受け、それに立ち向かうような人物像が描かれていたが、実際の歩みとは食い違っていた。こうした記述は、川中さんの活動だけでなく、教師や同級生、行政機関に対する読者の印象にも影響する。
川中だいじさんが抗議 望月記者と内田樹氏も謝罪
川中さんは10月17日、朝日新聞出版へ連絡し、記述の訂正を求めた。出版社は27日に訂正文を掲載したとされ、翌28日、川中さんは「日本中学生新聞」のXアカウントで、望月記者が自身について語った内容のほとんどが事実と異なると指摘した。特に、学校の教師や同級生について、本人が話してもいないことが書かれたことに衝撃を受けたという。さらに、訂正してもらうために時間と労力を取られていることへの憤りも明かした。自分の経験を紹介された高校生が、出版後にその内容を否定し、訂正を求め続ける状況となった。
望月記者と内田氏は10月28日、それぞれXで謝罪した。望月記者は事実と異なる内容を公表したことを謝罪し、出版前に十分な確認を行うべきだったと説明。編集者を通じて、川中さんに直接謝罪と説明をする機会を求めたという。内田氏も、出版前の原稿を確認した段階で誤りに気づけなかったことを謝罪した。朝日新聞出版は10月31日に公式サイトで改めて訂正と謝罪を公表し、11月1日に回収方針を発表。川中さんの申し入れから約2週間を要した。同社は対応に時間がかかったことも謝罪し、川中さんと家族に誠意を持って対応すると表明している。
なぜ誤記述を見抜けなかったのか 望月記者と出版社の責任
今回の問題で最も気になるのは、なぜ事実と異なるエピソードが複数掲載されたのかという点だ。対談本は著者が自身の経験や記憶をもとに語る形式だが、実在する人物の経歴や行動を紹介する以上、その内容は読者に事実として伝わる。今回の書籍では、教師が新聞を剝がした、行政機関で取材が難航したといった話が、川中さんの活動を印象づける要素となっていた。困難に立ち向かう少年という物語は読者の関心を引く一方、その出来事が事実と異なれば、本人の歩みを正しく伝えることにはならない。望月記者は政治家や行政機関に厳しい質問を重ねる報道姿勢で知られる人物だ。他者の発言や行動を検証する立場にある記者が、自ら発信する情報をどこまで確認していたのかという疑問が生じる。
出版元の朝日新聞出版にも責任がある。同社は編集過程の点検が不十分だったと認め、今後は資料との照合や著者への確認、複数の視点によるチェックを徹底すると説明している。今回、川中さんは自らの著書を出版するなど、活動の経緯を確認できる情報を発信していた。書籍で紹介する本人に事実関係を確認するという選択肢もあったはずだ。なぜ出版前に誤りを発見できなかったのか。望月記者が対談中にどのように発言したのか、文字起こしや編集の過程で内容が変化したのか。具体的な原因は調査中で、制作過程の検証が待たれる。
もう一つ注目したいのは、訂正から回収に至るまでの対応だ。書籍の誤りを正すためには、著者や編集者による確認、出版社としての判断が必要になる。しかし、その出発点となったのは川中さん本人の抗議だった。しかも、川中さんはまだ高校生である。自身の活動を正確に伝えるために、出版社とのやり取りに時間と労力を費やした。朝日新聞出版は、事実関係の誤りで川中さんを傷つけたことを重く受け止めていると説明している。
今回の回収は、出版物の正確さに対する信頼にも関わる。著者の知名度や社会的な発信力が大きいほど、その言葉は多くの人に届く。だからこそ、第三者の経験を紹介する際には、十分な裏付けが求められる。今後の焦点は、朝日新聞出版が誤記述の発生原因をどこまで明らかにし、具体的な再発防止策につなげられるかだ。そして望月記者自身が、今回の問題をどのように検証し、説明するのかも問われる。社会の問題を追及する記者だからこそ、自らの発信にも同じ厳しさが求められる。



