
横浜DeNAベイスターズのダヤン・ビシエド内野手(37)が、シーズン途中の引退というプロ野球では異例の決断を下した。5月23日、本人からの任意引退申し入れが明らかになり、翌24日のヤクルト戦(横浜スタジアム)をラストゲームとして、日本を去ることになった。球団は慰留に努めたが、本人の意思は固く了承せざるを得なかったという。中日時代を含め日本でプレーした11シーズン、「エル・タンケ(戦車)」の愛称で親しまれた助っ人の突然の退場に、ファンから惜しむ声が広がっている。
なぜシーズン途中という異例の決断なのか
今季のビシエドは、開幕から4番一塁でスタメンに名を連ねる滑り出しを見せた。しかし徐々に出場機会が減り、5月23日時点で20試合出場、そのうち16試合が代打での起用にとどまっていた。成績は打率2割5分9厘、1本塁打、6打点。レギュラーとしての出場が見込めない状況が続いていた。
昨季のDeNA在籍時の印象も鮮明だ。シーズン途中の7月に加入し43試合に出場。終盤には怪我でクライマックスシリーズを欠場したが、「この数ヶ月という短い期間でしたが、自分のキャリアにとって特別なものとなりました」とコメントし、横浜のファンとの絆を育んでいた。
それでも今季は出場機会が限られ、37歳という年齢とも照らし合わせた末、本人が「今が潮時」と判断したとみられる。近日中にチームを離れ渡米し、アメリカで家族とともに第二の人生を歩む見込みだ。
キューバからの亡命、MLBを経て日本へ
ビシエドの野球人生は波乱に富む。1989年3月10日、キューバ生まれ。若くしてキューバ代表として活躍し、「キューバの至宝」「オマール・リナレス2世」と称される天才打者として注目を集めた。
しかし2008年、19歳のとき、より高みを目指して祖国を脱出する決断を下す。いかだに乗ってキューバを脱出し、アメリカのフロリダ半島に上陸。ドミニカ共和国で居住権を得た後、同年12月にシカゴ・ホワイトソックスと4年総額1000万ドルの大型契約を結んだ。
2010年にMLBデビューを飾り、通算66本塁打を記録。しかし2014年オフにホワイトソックスを解雇され、翌年はブルージェイズとのマイナー契約も解除となった。そこに手を差し伸べたのが中日ドラゴンズだった。
中日での9年間 「外国人とは思えない」日本への溶け込みぶり
2016年に中日入りしたビシエドは、来日1年目から存在感を発揮。2018年には打率3割4分8厘、178安打で首位打者と最多安打の2冠を達成し、ベストナインにも選出された。中日での通算成績は9年間で打率2割8分8厘、139本塁打、549打点。ゴールデン・グラブ賞も2度獲得し、一塁守備の名手としても知られた。
さらに特筆すべきはグラウンド外での姿勢だ。外国人選手としては異例となる球団納会やファンフェスタへの参加を続け、息子は名古屋市内の学童野球チームに所属。一家を挙げて日本の生活に溶け込み、ナゴヤドームのファンから心から愛された。国内FA権の取得条件も満たし、日本人選手扱いとなった助っ人は球界でも珍しい存在だった。
中日退団後の模索と、DeNAでの再起
2024年オフ、中日から退団。日本でのプレー継続を望んだビシエドだったが声がかからず、メキシカンリーグでプレーする形でユニフォームを脱がなかった。その打力を買われ、2025年7月にDeNAへ電撃加入。昨季9月28日の広島戦ではNPB通算1000試合出場を達成するなど、日本球界への貢献の足跡を残した。
日本でのNPB通算成績は1021試合、1040安打、142本塁打。キューバからの亡命、MLBでの挑戦、そして日本での11年間。「エル・タンケ」が踏んだグラウンドの重みは、数字以上のものを持っている。



