明治から大正にかけて活躍した実業家・大倉喜八郎は、ESGという言葉がなかった時代に、環境・社会・ガバナンスの3つの観点から企業活動を行っていたと言えるでしょう。本稿では、大倉喜八郎のESGへの取り組みや課題、影響についてご紹介し、大倉喜八郎から学ぶESG経営のヒントを探ります。
大倉喜八郎とは?明治から大正にかけて活躍した実業家
ESGという言葉がよく使われるようになったのは近年のことですが、日本にもESG経営の先駆者と言える人物がいます。その一人が、明治から大正にかけて活躍した実業家・大倉喜八郎です。
大倉喜八郎は、1857年に江戸で生まれました。幼少期に父を亡くし、貧しい暮らしを送りましたが、勉強好きで才能を発揮しました。明治維新後、政府の海外渡航奨励制度を利用してアメリカに留学し、西洋の文化や技術を学び、帰国後は政府の要職に就いたり、鉄道や電信などのインフラ整備に携わっています。
1880年代からは、独立して実業界に進出しました。建築事業を中心に、製糖、製紙、醸造などさまざまな分野で事業を展開していきます。特に建築事業では、日本初の鉄筋コンクリート造りのビルや日本初の高層ビルなどを建設しました。また、海外視察を重ねて最新の技術や知識を取り入れるとともに、海外進出も積極的に行っています。
大倉喜八郎は、単なる実業家ではなく、社会貢献も忘れませんでした。教育や文化の振興に力を注ぎ、東京音楽学校や東京美術学校(現在の東京藝術大学)などの設立に協力したり、自ら美術品や古書を収集して公開したりしました。また、災害や戦争などで困窮する人々に対しても多額の寄付や支援を行っています。
1927年に死去するまでに、大倉喜八郎は日本の産業や社会に多大な影響を与えました。彼はESGという言葉がなかった時代に、環境・社会・ガバナンスの3つの観点から企業活動を行っていたと言えるでしょう。 大倉喜八郎は陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範に影響を受けたと言われています。彼の名言や格言は、以下のようなものがあります。
「進一歩という金言がある。だが、私は事を行なうに際して、つねに5歩も10歩も突き進んでから改めて考える」
「誰も引き受けないところに商機はある。人捨てるとき我これを拾う」
「信用を重んずべし、信用なき人は首なき人と同様なりと知るべし」
「諸君は必ず失敗する。成功があるかもしれませぬけれども、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ」
これらの言葉は、大倉喜八郎の事業精神や信念を表しています。大倉喜八郎は日本の近代化に尽力した実業家として、今でも多くの人々に尊敬されている人物です。
大倉喜八郎のESGへの取り組み:海外視察、建築事業、社会貢献
では、大倉喜八郎がどのようにESGへの取り組みを行っていたか見ていきましょう。
環境(Environment):
大倉喜八郎は、環境問題にも関心を持っていました。彼は海外視察で見た西洋の都市計画や公園建設などを参考にして、日本でも都市美化運動や公園整備などに取り組んでいます。例えば、東京の日本橋や銀座などの繁華街には、大倉喜八郎が建設したモダンなビルや街灯などが並び、都市の景観を向上させました。また、彼は自らの故郷である埼玉県川越市にも多くの寄付を行い、川越公園や川越城址公園などの整備に貢献しています。
また大倉喜八郎は、自然環境の保護にも力を入れました。彼は日本初の国立公園である日光国立公園の設立に協力し、自らも日光に別荘を建てて自然を楽しみました。北海道や沖縄などの開拓地にも関心を持ち、開発と環境保全のバランスを考えるように努めました。
社会(Social):
大倉喜八郎は、社会問題にも敏感でした。自らの貧しい経験から、教育や文化の普及に熱心でした。東京音楽学校や東京美術学校などの設立に協力するだけでなく、自らも音楽や美術に造詣が深く、多くの芸術家と交流しています。自分が収集した美術品や古書を一般に公開し、文化的な教養を広めることにも努めました。
また大倉喜八郎は、社会福祉にも積極的でした。災害や戦争などで困窮する人々に対しても多額の寄付や支援を行っています。例えば、関東大震災では被災者に食料や衣服などを提供し、復興事業にも協力したそうです。第一次世界大戦では、赤十字社や救護団などに寄付を行い、戦傷者や遺族の救済に貢献しました。
ガバナンス(Governance):
大倉喜八郎は、ガバナンスにも配慮していました。自らが経営する企業では、経営陣と従業員とのコミュニケーションを重視しました。例えば、建築事業で有名な大成建設(現在の大成建設グループ)を創業した際には、従業員と一緒に現場で働いたり、従業員の家族とも親しく交流したと言います。また、従業員の福利厚生や教育制度にも力を入れています。
また大倉喜八郎は、社会的な責任感も持っていました。政府とも良好な関係を築き、国家的な事業にも協力しています。例えば、鉄道や電信などのインフラ整備に携わったり、日露戦争では政府から軍需品の供給を受けたりしました。しかし、彼は政府に迎合するだけではなく、自らの信念に基づいて行動しました。日露戦争後には、日本とロシアの友好を促進するために、ロシアの文化や芸術を紹介する活動を行っています。
大倉喜八郎のESGへの影響:大成建設、大倉財閥、文化事業
大倉喜八郎が残した遺産や事業は、今でも日本の産業や社会に息づいています。ここでは、大倉喜八郎がESGへの影響として残したことをいくつか挙げてみます。
環境(Environment):
大倉喜八郎は環境問題に関心を持っていたことで、日本の都市計画や公園建設などに先駆的な役割を果たしました。彼が建設したビルや街灯などは、今でも東京の繁華街のシンボルとなっていますし、寄付した公園などは今でも市民の憩いの場となっています。大倉喜八郎が協力した日光国立公園は、日本の自然保護の先駆けとなりました。彼が関心を持った北海道や沖縄などの開拓地は、日本の国土や資源の多様性を示しています。
社会(Social):
大倉喜八郎は社会問題に敏感であったことで、日本の教育や文化の発展に貢献しました。彼が協力した東京音楽学校や東京美術学校は、日本の音楽や美術の教育の基盤となっています。収集した美術品や古書は、日本の文化財として保存され、交流した芸術家は、日本の芸術界に多大な影響を与えました。
ガバナンス(Governance):
大倉喜八郎がガバナンスにも配慮していたことで、日本の企業経営や社会責任のモデルとなったとも言えるでしょう。彼が創業した大成建設は、今でも日本を代表する建設会社として活躍しています。大倉財閥は、日本の経済界に影響力を持ちました。彼が協力した政府や国家的な事業は、日本の近代化や発展に貢献しています。
大倉喜八郎から学ぶESG経営のヒント:行動力、先見性、持続性
大倉喜八郎はESGへの影響を与えたと言えますが、それは偶然ではありませんでした。彼は自らESG経営を志し、実践し、継続しています。大倉喜八郎から学べるESG経営のヒントをいくつか挙げてみます。
行動力:
大倉喜八郎はESG経営を行うために行動力を発揮しました。彼は自分の目標や理想を実現するために積極的に挑戦し、努力しています。例えば、海外渡航奨励制度を利用してアメリカに留学し、西洋の文化や技術を学びました。また、独立して実業界に進出し、建築事業を中心にさまざまな分野で事業を展開しています。さらに、海外視察を重ねて最新の技術や知識を取り入れるとともに、海外進出も積極的に行いました。
ESG経営を行うためには、行動力が必要です。自分の目標や理想を実現するために、積極的に挑戦し、常に努力することが欠かせません。
先見性:
大倉喜八郎はESG経営を行うために先見性を発揮しました。彼は自分の時代や環境にとらわれず、未来や世界を見据えていたと言えるでしょう。例えば、日本初の鉄筋コンクリート造りのビルや日本初の高層ビルなどを建設し、日本の建築技術を革新しました。また、日光国立公園の設立に協力し、日本の自然保護の先駆けとなりました。さらに、日露戦争後に日本とロシアの友好を促進する活動を行い、国際的な平和にも寄与しています。
ESG経営を行うためには、先見性も必要です。自分の時代や環境にとらわれず、未来や世界を見据える高い視座が求められます。
持続性:
大倉喜八郎はESG経営を行うために持続性を発揮しました。自分の事業や貢献を一時的なものではなく、長期的なものとして考えました。
例えば、自らが経営する企業では、経営陣と従業員とのコミュニケーションや福利厚生などに力を入れ、企業文化や人材育成を重視しています。また、自らが収集した美術品や古書を一般に公開し、文化的な教養を広めることにも努めました。さらに、自らが寄付や支援を行った災害や戦争などの被災者や遺族に対しても長期的なフォローを行っています。 ESG経営を行うためには、持続性も必要です。自分の事業や貢献を一時的なものではなく、長期的なものとして考え、行動し続けないと何事も成就しません。まさに「継続は力なり」です。
出典・参考:
大倉喜八郎 – Wikipedia
大倉喜八郎ってどんな人?大倉財閥、大成建設との関係 | 文京つーしん (bunkyo-tushin.com)
次回のコラムでは、「ESGの温故知新 石田梅岩編」について解説します。