
いま、東京大学の総長人事をめぐってネットが炎上している。
東京大学は9月28日、藤井輝夫総長の任期満了(来年3月末)に伴う次期総長予定者として、大学院総合文化研究科の藤垣裕子教授(64)を選出したと発表した。
専門は科学技術社会論。2021年から5年間、理事・副学長として主に入試を担当した人物で、文部科学相の任命を経て正式に就任すれば、第32代にして東大史上初の女性総長が誕生する。任期は2027年4月から6年間だ。
騒動の火種は、総長人事の決め方にあった。東大では教授・准教授・職員らによる意向投票で学内の意思を示し、学内外の委員で構成する総長選考・監察会議が最終決定する仕組みを取っている。
9月28日、上位3人を対象に行われた2回目の意向投票では、電子皮膚などの研究で国際的に知られる工学者の染谷隆夫副学長が1107票でトップ。藤垣氏は553票と、半分で2位だった。ところが選考・監察会議は「総合的に考慮した」として藤垣氏を選出。
意向投祦1位でない候補が総長になるのは、現行制度の確立以降初めて。SNSでは「女子枠総長ではないか」「大学の自治はどこへ」と疑問が噴出した。
だが、これを日本の大学の内輪もめと見ると本質を見誤る。大学トップ人事と多様性をめぐる騒動は欧米で何度も繰り返され、そして世界はいま「DEI(多様性・公平性・包摂性)見直し」の真っ只中にあるからだ。
藤垣裕子とは何者か 「女子枠」批判と皮肉な当事者性
東大の大学人として、今回の人事に思うところのある、ある教授は「誤解のないよう記せば、藤垣氏は無名の学者ではありません。日本における科学技術社会論(STS)の第一人者であり、科学者の社会的責任やリベラルアーツ教育をテーマに発信を続けてきた教養学部の看板教員です。総長補佐、副研究科長を経て2021年から理事・副学長。論文の被引用数などの数字で、染谷氏のような実験系の世界的工学者と比べて実績が劣ると断じるのは、分野の流儀が違う以上フェアではありません」と語る
ただし、その経歴には批判を増幅させる当事者性があるとのことだ。というのも、藤垣氏が入試担当の理事・副学長を務めた5年間は、東大がダイバーシティ改革を最も加速させた時期と重なっている。東大は入試に女子枠こそ設けていないが、かねて女子学生比率3割の目標を掲げ、自宅通学が困難な女子学生への月3万円の住まい支援を実施。2022年には女性の教授・准教授を約300人新規採用する施策「#WeChange」を打ち出し、「女性限定公募は逆差別ではないか」と賛否を巻き起こした。
「改革の渦中にいた幹部が、今度は自ら投票2位からの女性登用で総長に就く。これは『結論ありきではないか』という疑念に火を注ぐ構図であることは否めませんよね」(先述の教授)
「多様性の象徴」はすでに燃え落ちた ハーバードの教訓
実は、今回の東大騒動と酩似の光景を、米国はすでに経験済みだ。舞台はハーバード大学。2023年7月、同大史上初の黒人女性学長として鯩々と就任したクローディン・ゲイ氏は、わずか半年余りの2024年1月、同大史上最短の在任期間で辞任に追い込まれた。直接の引き金は反ユダヤ主義をめぐる議会証言の失策と論文盗用疑惑だが、攻撃の本丸は別にあった。
ヘッジファンド大物のビル・アックマン氏らは「DEI(多様性重視の登用)が生んだ実力不相応の人事」と断じ、保守派論客は辞任を「米国の組織からDEIが終わる始まり」と勝利宣言した。同じ時期、ペンシルベニア大の女性学長リズ・マギル氏も辞任している。
見落とせないのは選考の仕組みだ。米国の主要大学では、学長は理事会が選ぶ。教授会の投票など存在しない。つまり「学外者を含む会議体がトップを決める」東大の総長選考・監察会議方式は、むしろ米国型に近い。だがその米国型が生んだ史上初人事は、選考の正統性に疑義が生じた瞬間、本人を守る盾を失った。ゲイ氏は辞任後、「私への攻撃は一大学・一個人の問題ではない」と反論したが、「属性で選ばれた」というレッテルは最後まで剥がれなかった。
ゲイ氏でさえそうなのだ。学内投票でダブルスコアの差をつけられた事実が公知されている藤垣氏の立場は、それよりはるかに脆い。正統性の根拠を問われたとき、「総合的に考慮した」以上の説明が、今のところ存在しないからだ。
ただし、決定的な違いもある。ゲイ氏には論文盗用疑惑という本人固有の失点があったが、藤垣氏に現状スキャンダルはない。ネットでは、「選ばれた側より選んだ側のプロセスが問題」という向きで炎上しており、燃えているのは候補者ではなく選考の側だ。そう、今後、東大が何を語るのか。これから語る言葉の質で、藤垣氏の見え方は変わるだろう。
世界は「DEI巻き戻し」の真っ只中 よりにもよってこのタイミングで
ゲイ氏の辞任が始まりだったとすれば、その後の展開は予言通りだった。2025年1月に返り咲いたトランプ政権は、就任初日に連邦政府のDEIプログラム廃止を命じる大統領令に署名し、政府契約企業にもDEI施策の見直しを義務付けた。大学は直接の標的となり、コロンビア大は約4億ドルの連邦資金停止を突きつけられて政権の要求をのんだ。企業側もウォルマート、マクドナルド、ターゲットといった大手が相次いでDEIの縮小・廃止に踏み切り、ESGやサステナビリティの旗も後退。
この逆風は太平洋を越え、日本企業の開示実務の現場でも「女性活躍」「DEI」という言葉の扱いに神経を尖らせる空気が広がりつつある。
そんな2026年の秋に、である。ネット上で批判の急先鋒に立つのが、東大法学部卒で元検察官の弁護士・山尾志桜里氏だ。山尾氏がXで展開した論点は、2つ。第一に、東大の選考基準に性別の文字はなく、むしろはっきり書かれているのは「組織構成員の幅広い支持と合意形成能力」。過半数の支持を得た候補を退けるなら、自ら掲げた基準と噛み合わないこと。
第二に、入試の女子枠なら少なくとも枠の存在が事前に示され、受ける側も承知で受け、賛否を論じ、合憲性を裁判で争うことさえできる。だが今回は「書かれていない物差し」で結果が決まっており、負けた側は何に負けたのかすら分からない。適正手続きへの疑義が生じてしまっていること。
これで行き着く先は、「男性は実力で勝っても性別で覆されると感じ、女性は実力で選ばれても女子枠と言われる」誰も納得しないまま溝だけが深まる世界である。これは米国がこの5年ではまり込んだ袋小路そのものだ。
山尾氏はさらに、学生新聞の取材すら拒むとされる藤垣氏が総長として今後社会とどうコミュニケーションを取っていくのか、OGの立場から懸念も示していると語っている。
おそらく、最大の被害者は、本来なら祝福されるべき藤垣氏自身なのだろう。
東大側にも言い分はある だが「理由」はまだ語られていない
公平を期すため、選ぶ側の事情も記しておこう。東大では近年、医学系研究科の元教授らによるソープランド接待などの汚職事件が相次いで発覚し、ガバナンス強化が急務となっていた。学内の人気だけでトップを決めることへの反省が、学外の視点を重視する方向に働いたとの見方は根強い。
選考・監察会議の議長はジャーナリストの国谷裕子氏。会議は意向投票の結果に加え、候補者への面接や所信表明の内容をふまえて審議したと説明している。制度上の瑕疵もない。2004年の国立大学法人化以降、総長を決める権限は学内外の委員で構成する選考会議にあり、意向投票は法的には参考に過ぎないからだ。今回の逆転は、適法ではある。
問題はその先。東大が公表した資料は選出の事実と略歴の紹介が中心で、「なぜ過半数の支持を得た候補ではなく藤垣氏なのか」に正面から答える記述は見当たらない。適法であることと、納得が得られることは別物である。
実は前科があった 6年前も紛糾した東大総長選考
見落とされがちだが、東大の総長選考が炒げるのは今回が初めてではない。藤井現総長が選ばれた2020年の選考でも、候補絞り込みの不透明さに教員有志が意向投票の延期を要求し、質問状が飛び交い、選考後には外部の検証委員会まで設置された。
東大新聞の調査では回答者の77%が選考過程を「透明ではない」と答え、騒動の末に選考会議の小宮山宏議長(元総長)は辞任に追い込まれている。問題は、6年前に「説明責任を果たせ」と迫られたはずの組織が、今回は意向投祦1位を退けるというはるかに重い判断をしながら、前回以下の説明しかしていないことだ。
皮肉なことに、藤垣氏の専門は科学技術社会論。科学者の社会的責任や「科学と社会の対話」を研究してきた当人である。ならば新総長の最初の仕事は決まっている。自らの選出プロセスを、自らの学問の流儀で社会に説明することだ。それができなければ、「史上初の女性総長」という金字塔は、日本におけるDEI逆風の号砲として記憶されかねない。
今後の注目点は三つ。
第一に、文部科学相の任命手続きと並行して、東大が追加の説明を出すかどうか。
第二に、2020年には外部検証委員会の設置にまで発展した経緯があるだけに、今回も学内から検証や公開質問状を求める動きが出るか。
第三に、2027年4月の就任時、藤垣氏自身が最初の会見で何を語るかだ。
史上初の女性総長が祝福で迎えられるか、疑念を背負ったまま船出するか──残された半年の説明が、それを決める。



