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『あのちゃんねる』最終回で騒動に触れず幕 あの・鈴木紗理奈問題で露呈した“番組演出”の危うさ

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あの
あのちゃんねる【テレビ朝日】公式インスタグラムより

『あのちゃんねる』の最終回は、いつも通りのにぎやかさのまま終わった。画面に出たのは、視聴者への感謝を伝える短いテロップだけ。5月の放送をめぐる騒動には触れず、番組は静かに幕を下ろした。だが、その沈黙は穏やかな配慮というより、制作側が抱えた問題を最後まで画面の外へ押し出したようにも見えた。

 

 

『あのちゃんねる』最終回 感謝テロップだけで閉じた深夜の画面

深夜0時台の画面に映った『あのちゃんねる』は、最終回という言葉から想像するような特別な空気を、あえてまとっていなかった。冒頭には、騒動前の5月10日に収録されたことを示すテロップが出た。放送されたのは「やっぱり家が好き 第3弾」。家好きの芸能人たちを招き、あのがいつもの調子でトークを進める企画だった。

出演したのは、シソンヌの長谷川忍、Aぇ! groupの末澤誠也、ベッキーら。さらにJOY&mai夫婦、サツマカワRPG&でか美ちゃん夫婦が悩み相談ゲストとして登場し、番組はにぎやかに進んだ。笑い声があり、やり取りがあり、画面の中だけを見れば、そこには通常回と変わらない時間が流れていた。

だが、視聴者の側には別の記憶がある。5月の放送で起きた騒動、その後の謝罪、あのの降板表明、そして番組終了の発表。そうした経緯を知ったうえで見る最終回は、どこか落ち着かない。番組の中で何か説明があるのか、最後に一言でも触れるのか。その気配を探していた人も少なくなかったはずだ。

結局、騒動への直接的な言及はなかった。番組の終盤に表示されたのは、「あのちゃんねる最終回」と、これまでの視聴に感謝するメッセージだけだった。丁寧な言葉ではある。だが、そこに至るまでの経緯を思えば、きれいに片づけられた部屋の真ん中に、触れられなかった荷物だけが残っているような後味があった。

 

発端は「嫌いな芸能人」企画 実名トークが笑いにならなかった理由

騒動の発端は、5月18日深夜の放送だった。番組内の企画で、あのが「嫌いな芸能人」として鈴木紗理奈の名前を挙げたことが波紋を広げた。鈴木はSNSで不快感を示し、本人がいない場で名前を出されたことや、その場面を番組が放送したことに疑問を投げかけた。

この騒動を、あのの発言だけに押し込めると、肝心な部分が見えにくくなる。そもそも「嫌いな芸能人は誰か」という質問を企画として用意し、発言が出る流れを作り、収録後の編集を経て放送したのは番組側だ。テレビ朝日は公式サイトで、番組制作スタッフの配慮が足りず、鈴木に不快な思いをさせ、あのにとっても本意ではない形の放送、企画、編集内容になったと謝罪している。さらに、不適切な質問や企画上の演出によって不本意な発言を誘導し、精査が不十分なまま放送したことも認めた。

バラエティーから毒を消せばよい、という話ではない。毒舌や実名トークは、関係性や文脈があれば笑いになることもある。だが、相手がその場におらず、どんな関係なのかも見えにくい状態で「嫌い」という言葉だけが放送されれば、笑いより先に棘が立つ。見ている側も、名前を出された側も、その棘の鋭さに反応する。制作側は、放送前にそこを想像できなければならなかった。

 

あのの個性を生かす番組が、あのに背負わせたもの

あのは騒動後、自身のXで番組への思いを明かした。これまでも表現や企画内容について意見を伝えてきたこと、不本意な状況が続いていたこと、そして最終的に番組を続けたくないと感じたことを記している。冠番組の中心にいた本人が、自ら降板の意思を示したことは、ただの不満表明では済まない。

あのというタレントは、予定調和から少し外れた言葉や、独特の距離感で支持を集めてきた。番組もまた、その個性を大きな魅力として扱っていた。だからこそ、制作側には、その言葉が誤った形で消費されないよう守る責任があったはずだ。尖った発言を引き出すことと、本人の意図から離れた危うさを演出することは違う。

テレビ番組では、収録現場で出た言葉がそのまま視聴者に届くわけではない。どの発言を残すのか、どの順番で見せるのか、どんなテロップを添えるのか。その積み重ねによって、言葉の印象は大きく変わる。数秒の場面でも、画面の上では出演者本人の人格のように受け取られてしまうことがある。そこで批判が集まれば、最初に矢面に立つのは演者だ。

今回、あのと鈴木紗理奈の名前ばかりが前に出た。しかし、番組が本当に向き合うべきだったのは、誰かの実名を場を盛り上げる材料として扱った制作側の感覚ではないか。面白さのためなら、相手のいない場所で名前を出してよいのか。出演者の個性を借りながら、その個性が傷ついたときにどこまで守るのか。番組は、その線引きで大きくつまずいた。

 

最終回で語らなかったテレビ朝日 沈黙は無難ではなく冷たく見えた

最終回が騒動前に収録されていた以上、本編の中で出演者が経緯を語ることは難しかったのだろう。番組の流れを壊さないために、通常の内容をそのまま放送する判断もあり得る。公式サイトで謝罪と番組終了を発表していたため、放送内で繰り返す必要はないと考えたのかもしれない。

ただ、最終回は番組が視聴者に最後の顔を見せる場でもある。そこにあったのが感謝のテロップだけだったことで、最も触れてほしい部分だけが静かに避けられたように見えてしまった。誰かを責める必要はない。騒動を蒸し返して、さらに傷を広げる必要もない。けれど、番組として何を受け止めたのかを、短い一文で示すことはできたはずだ。

その一文がなかったことで、画面は少し軽く見えた。にぎやかなトークのあと、明るい感謝の言葉だけが流れる。悪意はなかったのだろう。しかし、悪意がないことと、誠実に映ることは別である。番組終了までの経緯を知る視聴者にとって、その明るさは、どこか冷たいものに感じられた。

 

『あのちゃんねる』終了が映した、古いバラエティー演出の限界

今回の騒動は、一つの深夜番組が終わったというだけの話ではない。長くテレビの中で使われてきた「いじり」や「毒舌」や「実名トーク」が、今の視聴者の感覚とずれ始めていることをはっきり見せた。かつては、強い言葉が番組を盛り上げる燃料として扱われた。少し乱暴な質問も、毒のある返答も、笑いの範囲に収められることがあった。だが今は、放送の一部がすぐに切り取られ、SNSで広がる。番組全体の空気よりも、数秒の言葉だけが一人歩きする。そこで名前を出された側はもちろん、発言した側も無傷ではいられない。

それでもテレビが同じ作り方を続けるなら、似たような炎上はまた起きる。問題が起きるたびに謝罪し、番組を閉じ、次の番組でまた同じような演出をするのなら、何も変わっていないのと同じだ。出演者の個性は、制作側が好きに加工してよい素材ではない。相手の名前も、場を盛り上げるための小道具ではない。

『あのちゃんねる』は、騒動に触れないまま終わった。最後の「ありがとうございました」という言葉は、番組を楽しんできた視聴者への感謝だったのだろう。ただ、その裏側に残ったのは、きれいな余韻ではない。誰かの言葉を面白さのために転がし、都合が悪くなると静かに畳む。そんな作り方がまだ通用すると思っているなら、テレビは視聴者よりずっと鈍い。

 

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ライター:

Webライター。きれいごとだけでは済まない現実を、少し距離を置いて綴っています。

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