
ネット掲示板「2ちゃんねる」創設者であり、論客としてテレビやネットを席巻するひろゆき氏。一時期はテレビでどのチャンネルを回しても彼の顔を見ない日はなかったが、現在、地上波の番組でその姿を確認することはほぼ不可能となって久しい。
ネット掲示板「2ちゃんねる」創設者であり、論客としてテレビやネットを席巻するひろゆき氏。一時期はテレビでどのチャンネルを回しても彼の顔を見ない日はなかったが、現在、地上波の番組でその姿を確認することはほぼ不可能となって久しい。
本人はSNSや配信などで「辺野古をイジってから一切呼ばれなくなった」と冗談めかして語っている。ネット上では「巨大な労働組合の陰謀だ」「言論弾圧だ」といった極端な憶測が飛び交っているが、事態はそれほど単純なものではない。彼がテレビから姿を消した背景には、日本のメディアが抱えるリスク回避の病理と歪な忖度構造が複雑に絡み合っていた。
「辺野古ツイート」は単なる引き金に過ぎない
ひろゆき氏は5月18日にXに「辺野古基金の賛同団体の一つが日本民間放送労働組合連合会。 各テレビ局が労働組合を敵に回すわけにはいかないのですよ。」などと投稿。確かに、遡ること4年。2022年10月にひろゆき氏が、沖縄・辺野古の座り込み抗議活動を現地から冷笑的にSNSで発信したことは大きな波紋を呼んだ。そして、実際にその時を境に、彼をテレビ局で見ることはなくなっていったという事実はあるのだ。だが、果たしてこれは本当だろうか。
しかし、テレビ局が彼を出禁にした理由は、「単なる一つの政治的発言だけではない」と語るのはテレビ局のキャスティングに詳しいライターの籠原氏。
「そもそもテレビ局の番組制作において、キャスティングの決定権を握っているのは労働組合ではなく、経営陣や番組プロデューサー。彼らにとって最も恐ろしいのは、スポンサーへのクレームと局内トラブルです。かつての賠償金未払い問題など、常に危ういコンプライアンスの綱渡りをしていたひろゆき氏は、辺野古発言によって『これ以上起用すれば、局内外から本格的な抗議活動の標的になる』という決定的なレッドカードを突きつけられたと見るのが正しいかもしれません」。
民放労連の「絶対的スタンス」とテレビマンの保身
ここで浮上するのが、ネット上で黒幕と囁かれる「民放労連(日本民間放送労働組合連合会)」の存在である。全国のテレビ局員が加入するこの組織は、辺野古の新基地建設反対運動を支える「辺野古基金」の賛同団体となっている。
この「辺野古基金」は決して弱小な市民団体ではない。これまでに約8億円もの巨額の寄付を集め、共同代表には世界的アニメーション監督である宮崎駿氏のような絶大な影響力を持つ文化人たちも名を連ねている。権力に抗うという理念のもと、民放労連は2017年の公式談話で「沖縄の苦悩に両論併記はありえない」と宣言した。これは、国家権力という巨大な力に対して機械的な中立を保つことは、かえって不公平を生むというジャーナリズムにおける一つの抵抗の姿勢でもある。
しかし、現場のテレビマンたちはこの状況を別の形で受け取った。局内の労働組合が明確な政治的スタンスを打ち出し、その背後には宮崎駿氏ら大物文化人が支持する8億円規模の団体が控えている。そんな状況下で、あえて辺野古の運動を揶揄したひろゆき氏を番組に呼ぶプロデューサーはいない。
「労組の圧力が怖くて呼べない」というよりは、「面倒な社内政治やスポンサー離れのリスクを背負ってまで、彼を使う理由がない」という忖度(そんたく)が働いたのが実態だろう。
SNSで可視化された「テレビへの絶望」
こうしたテレビ局の事なかれ主義と、特定のイデオロギーに対する過剰な配慮は、視聴者の目に偏向報道として映っている。事実関係はともかく、ネット上ではあらゆる事象が「メディアと反対派の癒着」として消費されるようになってしまった。
事実、5月19日のSNSでは、あるユーザーは、特定の活動家に不都合な事故の報道が少ないと感じたのか、「作品は別物として愛したいけど、共同代表として8億円集める立場でこの事故にコメントなしはきつい」と、怒りの矛先を基金の代表である宮崎氏にまで向けている。
また、「報道機関関係団体がこんなに堂々と『報道の公平・公正』を否定するとは…自分たちがなぜ『マスゴミ』と見下されるようになったのか、わからない?」というメディアの姿勢そのものを問う声や、「メディアと反対派活動組織の癒着……闇深すぎでしょ。内側からの侵食だよね」といった不信感に満ちた声も溢れ返っている。
さらに決定的なのは、テレビから干されたこと自体が、現代では一種のステータスになっている点だ。「むしろ呼ばれなくなった瞬間に『呼ばれない側に正論あるんだな』って読者に伝わる時代になったよね」「『呼ばれなくなった人ほど発信力ある』って形にもうなってる。干された側がコンテンツの主役になる時代」という指摘は、テレビというメディアの敗北宣言そのものである。
自縄自縛に陥ったメディアの末路
ひろゆき氏の地上波追放は、悪の巨大組織が彼を暗殺したような単純な陰謀劇ではない。複雑な政治問題に踏み込む覚悟を持たず、局内の空気とスポンサーの顔色だけを窺い、臭いものに蓋をしたテレビ業界の事なかれ主義の結晶である。
多様な意見を戦わせる場であることを放棄し、特定の価値観に忖度し続けた結果、テレビは最も影響力のある発信者たちを自ら手放してしまった。ひろゆき氏が去った後の無菌室のようなブラウン管の中で、今日も当たり障りのないコメントが消費されていく。その空虚さこそが、現代のテレビ界が抱える最も深い闇なのかもしれない。



