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なぜ仏教が経営の本質を突いているのか?だって、仏教から経営が生まれたんだもの

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なぜ仏教が経営の本質を突いているのか?だって、仏教から経営が生まれたんだもの

最近の経済現象をゆる~やかに切り、「通説」をナナメに読み説く連載の第16回!イマドキのビジネスはだいたいそんなかんじだ‼

得度までした大経営者の稲盛和夫さん

知人のなかに写経を始めたという者がいる。少し肌寒げな空間で背筋をのばして、ひたすらありがたい文字を写していく行為は、想像するだけで心が洗われそうな気がする。

ちょっと仕事で思い通りにいかないと、無性にイライラしたりする、人間のできていないワタシなどは特に。 そしてしばらくすると「ああ、まだまだです、稲盛さん」と財界の大先達に勝手に詫びを入れたりする。もちろんワタシが財界と縁があるほど大物ではないのは、諸姉諸兄お察しの通りである。

稲盛さんとはもちろん、京セラの創始者の故稲盛和夫さんのことだ。売上高2兆円の大企業をつくり、現在のKDDIを創業して通信業界に風穴を開け、破綻したJALを再生させた、経営のプロ中のプロである。事業規模の大きさだけなら、もっと上大きい人はいる。だが稲盛さんの器の大きさと徳の高さに敵う人はそうそういない。なにせ俗世を断って臨済宗妙心寺派の円福寺で得度までした人なのだから、存在自体が、ありがたいと思うのである。

まだまだいる、仏教に帰依した経営者

稲盛さんほどではないが、長年会社経営を行っていると仏教が近くなる経営者は結構いる。 昭和世代なら、稲盛さんのほか石川島播磨重工業(現IHI)の社長で東芝の再建を成功させ、さらに増税なき財政改革を目指す国の臨時税制調査会の第二回目(第二臨調)のトップとして辣腕をふるった土光敏夫さんや、パナソニックを一代で築いた経営の神様、松下幸之助さんが知られている。

松下さんは家系的に浄土真宗の信者であったが、とくにどの宗派に属することはなく仏教全体を通じた共存共栄の思想を経営に反映していたとされる。松下さんの「水道哲学」はその代表だ。その思想はパナソニック本体に存分に注入されており、なんとパナソニックの総務には真言宗醍醐派の総本山醍醐寺で修行した祭祀担当者がいるほど。

また花王の社長だった丸田芳郎さんも有名だ。仏教が説く「共存共栄」「慈悲」の教えを経営に採り入れ、現在の花王の経営の基盤をつくったとされる。 ほかにも精密測定機器のグローバル企業であるミツトヨを築いた沼田恵範(えはん)さんやツムラの二代目社長の津村重舎さん、協和発酵創業者の加藤辨三郎さん、三笠会館の創立者の谷善之丞さん、宮崎銀行の頭取だった井上信一さんなど錚々たる方々がいらっしゃる。

ミツトヨの沼田さんなんかは、仏教をもっと伝道したいということで「仏教伝導協会までつくってしまっているのだ。もはやどっちが本業かわからないほどの気の入れようだった。

日本ばかりではない。海外でも仏教の教えに引き寄せられた経営者は多い。あの世界のアップルを築いたカリスマ中のカリスマ経営者スティーブ・ジョブズさんもそうだ。
彼は禅宗の禅にハマり、無駄を省いた美しいものづくりの哲学を体得、シンプルさやインスピレーションを大切にした経営を実践し、時代に先駆けた革新的製品を続々と生み出してきた。

仏教と最先端のITとはなかなか結びつきにくいが、時代を超越した発想を得るには仏教の大きな大きな世界観を脳内に注入する必要があったのだろう。

最近話題となっている小野龍光さんもそんな一人だ。小野さんは大学院時代からモバイル関連のビジネスに関わり、サイバーエージェントの新規事業を立ち上げ、年商100億円を超える企業に成長させた後も経営者・投資家として活躍、インドで得度して僧侶になったという人物。その帰依の仕方が「ギャップありすぎ」と世間をざわつかせ、You tube界隈で話題となっている。

曼荼羅図は企業の組織・ステークホルダーとの縁を表したエコシステム図

仏像のイメージ

ことほどさように、心を仏教に鷲掴みされる経営者は多いのである。 なんで彼らは仏教に帰依していくのだろうか。きっと経営という行為にのめり込めば込むほど、経営が理屈や数字だけで乗り切れるものではないことがわかってくるからだろう。

それは年齢の問題というより、経営の本質に近づいてきたからかもしれない。

よく「仏心で商売はできない」という声を聞く。 だが、実際は不思議なことに仏心に近づけば近づくほど経営の奥義に近づく。なぜなら「経営」とはそもそも仏教用語だからである。仏教において、経とはお経の「経」、すなわち「学び」を意味し、営は「行動」を意味する。すなわち仏教における経営とは知識と行動を習合して、「自分をどう活かすか」「どういう人生を歩んでいくべきか」を探求することなのである。

そこには現在の持続可能なサステイナブル経営のエッセンスが詰まっている。 たとえば仏教に詳しい経営コンサルタントの本多信一さんによると、企業組織は「曼荼羅図」と似てるという。

曼荼羅図はご存知の通り、仏教の悟りの世界観を視覚的に表現した図版である。中心に「大日如来」を置き、その周囲に薬師如来や釈迦如来など、合計実に1875体の仏様が描かれている。いわば仏教界の組織図である。いまふうに言うなら仏教のエコシステム図である。

企業の組織は、社長や企画部、営業部、経理部など、如来様に代わる役割を持つ人たちがそれぞれ、その先のお客様や取引先、いわゆるステークホルダーに繋がっている。
お客様をはじめとしたステークホルダーとの繋がり(縁)を大切にしていくことができれば、その企業は繁栄してゆくことが分かると本多さんは言う。

本多さんは経営者なら「この中心にある大日如来を自分に置き換えてみれば、その縁に関わってくる人の結びつきを実感できるはず」とおっしゃるのである。

そしてこの繋がりとは何かというと、いまでいうところの「情報」である。
いかに濃い情報をそこでやりとりできるかで、お客様や取引先とのつながり、ネットワークが強化されていく

仏教とマーケティングは似ている

さらに本多さんは「仏教とマーケティングは似ている」という。 両者の違いは「マーケティングは最終的に金を与えようとし、仏教は安心を与えようとしているとこと」だ。

マーケティングは消費者の潜在的な願望に着目してその願望の実現プロセスを追求していくのに対し、仏教では浄土からの救い、安心を求める。最終的に求めるものは違っていても、そこに辿り着くまでの方法は似ているというのである。 では曼荼羅図の中心となる経営者は何を目指せばいいのか。

経営者は「大いなる知恵」を追求すべし

経営者は「大いなる知恵」を追求すべし、というのが仏教の教えである。
知恵のことを仏教用語では「般若」という。あのコワモテの般若のことだ。意外なようだが、本当だ。なぜ知恵を象徴している般若があんな恐ろしい表情を見せているのかというと、観客に対して恐怖を与えることで内面的な成長を促す意味があるという。

知恵というものは、のほほんした生活のなかでは身につかず、いろいろ失敗や悲しいこと、悔しいことなどを繰り返して身につくという示唆が含まれているのだ。
とかく昨今は、ちょっとキツめの指導をするだけで、矢鱈ハラスメントと騒がれることが多いけど、知恵をつけたいなら、ある程度の試練は必要なのだ。

この知恵(般若)の追求のことは、鎌倉時代の禅僧、道元が書いた仏教思想書「正法眼蔵」の第一巻で紹介される教義「摩訶般若波羅蜜」(まかはんにゃはらみつ)でしっかり示されている。「まかはんにゃら〜」という響きはなんとなく耳にした方もおいでだろう。

摩訶とは「大いなる」という意味だ。波羅蜜は波羅蜜多、パラメータの語源とも言われ「完成する、成就する」という意味だ。いま使われている「変数」という意味とかなり違っているが……。

つまり「摩訶般若波羅蜜」は「大いなる知恵の成就」となる。

経営者は心を「空」にして全身全霊で知恵(般若)を成就せよ

正法眼蔵の一巻冒頭に、より具体的に経営者のあるべき姿が述べられている。 「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五薀皆空、度一切苦厄」という経文である。
その意味は「観音菩薩が知恵を完成させようと行を深めたそのときに、全身全霊・全感覚で見極めた」である。

ここには般若と一緒に優しさと包容力の象徴のような菩薩様が出てくる。一般社団法人社会運勢学会の創設者で仏教博士の村山幸徳さんによれば、ここで出てくる菩薩とは、大衆から修行生活を経て指導者になって人々を導いたとされる観音様を指すという。いわば叩き上げの経営者のようなイメージである。

つまりこの経文には「人を導く役目を持つ人(菩薩)は、まず心を『空』にするよう行を深め、全身全霊をもって知恵を成就させなければならない」という経営者の姿が明示されているのである。
明治時代の西洋画家・原田直次郎が描いた作品に「騎龍観音」という龍の上に立つ菩薩像があるが、あんな感じの毅然としたイメージと言えば、ちょっとわかるかもしれない。うーん逆にわからないか……。

つまりこの経文には現代における経営者のあるべき姿が述べられているというのだ。 ここで見極めるのは何かというと、五蘊皆空、つまり、「心がすべて空であった」ということ。五蘊とは心の作用の5段階を意味し、「色」「受」「想」「行」「識」の5つ。

「色」は、存在するものすべてのことで、「受」はそれを受ける「見る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」「触る」の五感を指す。「想」は「受」を受けて考えること。「行」は思考を受けての行動、「識」は行を受けて残った感情の記憶や情報を意味する。

それら一切が空であるということを見極めなければならないというのが、道元の教えである。 転じてマネージャーや経営者といった、人を導く役目を持つ人は、まず心を空にするよう行を深め、全身全霊をもって知恵(般若)を成就させなければならないというのだ。

「空」とはエネルギー。日本人は空を融通無碍に使うのが巧み

「空」とは仏教の世界観を表す、色即是空の先端の量子力学に通じる仏教の根本教理の1つで、「現世のあらゆる事物や現象は実体ではなく空無であること」だ。村山さんはこの空を1つの「エネルギー」だと捉えている。

モノにはなんらかのエネルギーが備わっており、それは燃やすと熱として発せられたり、移動するためのエネルギー、あるいは溶解したり気化したりと物質のありようが変化するときにもエネルギーが使われる。

すなわち何ものにも変化できるエネルギーである空が日本式経営の中核にあったからこそ、日本人は融通無碍にさまざまなものを取り入れ、発展させることができたのだと。村山さんはこう続ける。

「自分に向けた意識を捨てれば、世界はありのままに見える。こだわりを捨てるから、決断後は疾風の如くに動く。日本の経営者は孫悟空と同じ『空』の雲に乗っている。『日本では欧米に比べ、決定に到達するのに多くの時間を要している。しかし、ひとたび決定がなされると、日本のほうがうまくことが運ぶ』理由はここにある」。

日本の経営の弱点は決定まで時間がかかることだとは、よく指摘されるところである。しかし村山さんは、それが日本的経営の特長だと説いているのだ。 決定まで時間がかかるのは空を推し量っているから。

「だから顔が見えず、何を考えているか外からではうかがい知れない」のだと。

ドラッカーさんが称賛した日本の会合哲学

村山さんはこうした事例として、経営学の泰斗、ピーター・ドラッカーさんが説明した三菱グループの経営者たちの意思決定の様子を引いている。

「トップたちは自分の時間を会合に費やす。会合の合間はじっと座り、何杯か緑茶をすすり、耳を傾け、いくつかの質問をする。(略)たとえば、三菱グループ会社の社長が週に一度、一同に会する有名な5時間の昼食会のように。彼らはとにかく、人と会ってじっと座って時を過ごすのだ。そうした会合では、必ずしもビジネスについて話し合うわけではない。でもひとたび危機、あるいはチャンスが訪れると、ひたすら人と会ってじっと座るだけだった者たちは、驚くべきスピードと決意、時には驚くべき冷酷さをもって行動できる。

なぜなら、人と会する目的は互いに相手を気に入り、含意を育み、相互信頼を生むことではないからである。なぜ相手のことが気に食わないのか、なぜ意見が一致しないのか、なぜ信頼できないかを理解することが目的なのである」

ここで示される日本の経営が「空」なのだと。
もちろん、異論もあるだろう。日本を代表する企業グループのトップが集まって話すことは、グループの結束力を高めるくらいのことで、主だった経営課題は各企業の役員会議や企画会議で済ませているはずだし。

でも、ドラッカーさんはそこから仏教的エッセンスを嗅ぎ取っていたようなのだ。ドラッカーさんが見た会合は、およそ欧米の「合理的」と見える会議の世界とかけ離れていた。しかしそれは空という世界観を持つ日本人ならではの経営方法に基づき行われている得心のいく会合だった。そこをドラッカーさんは見抜いていた。

ドラッカーさんは、日本式経営の特長をよく分析し、日本式経営を評価したことで知られている。彼が日本の経営を分析していなかったら果たして経営学という学問が誕生していただろうかと思うほどだ。

とくに彼は広く知恵を集めて課題の改善を進める「QC=Quality Control(品質管理)」は日本式経営の根本原理として称賛している。

日本のQCの活動は、法然と親鸞が生み出した!

ドラッカーさんは、日本のQC活動がこれほど浸透したのは、日本の企業人に継続的訓練の資質があったからと分析しているが、村山さんによれば、この継続的訓練の源流は大乗仏教にあるという。

大乗仏教は日本や中国で広まった考え方だが、その発展の契機をつくったのが平安時代に大ブレイクした「浄土」の思想である。浄土とはその字の如く、穢のない清明な世界である。浄土の思想ではこの穢のない清明な世界から、念仏の声により弥陀がやってきて、救いの手を差し伸べるとされる。

この浄土の思想を積極的に採用し広めたのが平安時代に活躍した天台宗の僧、法然である。法然はその著『選択本願念仏集』で、「民衆が仏の厳しい戒律を守りぬくことは難しい。しかし修行を大衆化することで、あらゆる人が浄土に赴くことができるのではないか」と考えたと記している。

さらにその弟子親鸞は、現世においては悪人も善人も区別せず、むしろ悪人こそ念仏を唱え弥陀に救われるべきとする有名な「悪人正機説」を説いた。民衆と弥陀の世界が一気に近づいたのである。
念仏を唱えることで民衆は弥陀の救いを確信し、先人たちは辛い農作業や徹夜の仕事を黙々とこなしてきたのだと、村山さんは述べる。

かくして浄土信仰はいつしか「忍耐」という徳目と「継続」という素晴らしい可能性を日本中に根付かせ、それが現在のQCのベースとなる日本人の勤勉性や根気強さを育んだのだと。
ちなみに法然と親鸞は、キリスト教式で言えば日本の仏教に宗教改革を起こした人物だとワタシは思っている。法然がルターで、カルヴァンが親鸞である。

キリスト教ではこの二人がプロテスタントの教祖となって、キリスト教の教義の大衆化を進め、さらに資本主義の源流をつくったわけだが、それほどのインパクトを法然と親鸞は与えた。
実際浄土信仰を軸とした浄土宗、浄土真宗は日本の仏教宗派で最も信者が多い。

その教義がおよそ900年の年月を経て、QCをベースにした現場の強い日本的経営を生み出したと言って過言ではないと思っている。

いま世界中で分断と格差が広がっているとされるが、そのなかでも日本はまれに見る平等意識の高い国だと言われている。この平等性は法然や親鸞の念仏が広まる過程で形成されていったとも言える。かねてより日本の経営陣が欧米の経営陣に比べ報酬が低いことが指摘されてきたが、日本における仏教の浸透経緯からすれば、納得のいく話でもある。

すべては「空」。企業の財やモノは縁によって一時的に預かっている存在

仏教経営を紐解いていくと、その核心を空が担っていることが、なんとなく見えてくる。 空とは、こだわりのない無心が原点である。 かつて、稲盛さんが事業を進めるにあたって何度も「動機善なりや、私心なかりしか」と自問した話は有名だが、仏教に帰依した稲盛さんであれば、当然の経営思考である。
仏教の基本的な教えを短い詩句で表現した経典「法句譬喩経(ほっくひゆきょう)」というものがあるが、これには「財」や「モノ」についてこんなふうに書かれている。

「一つとして『わがもの』というものはない。すべてはただ因縁によって自分に来たものであり、しばらく預っているだけのことである。だから一つのものでも粗末にしてはいけない」。 これは、いまどきのサブスクとか、シェアリアングエコノミーを言い当てているようでもある。

いま企業には持続可能な社会をつくる責任が負わされている。企業を持続・維持させるためには企業が利益を出し続けなければならない。金を生み貯めることで社業を拡大させていくのが経営だ。それを「空」に求めるのはなんともハードルが高そうだ。 だけども、財やモノを「しばし預かっている」と考えれば、かなり心は楽になる。私心もなくなっていく。

人は一度危機を乗り越えると、それに味をしめて同じパターンで乗り越えようとしがちだ。さまざまな関係性のなかで成り立つ空においては、刻々と関係性が変わっていく。だから空を見極めることができない経営者は2度3度同じパターンを使い、失敗してしまう。自分が見たこと聞いたことを「カラ」にしてこそ成功するのだと、村山さんは説く。

知人が始めた写経は、その「空」づくりのきっかけだったのかもしれない。  そう言えば彼、起業したいとも言っていたなー。

さてさて「空」の経営、諸姉諸兄はできているだろうか。
イマドキのビジネスはだいたいそんな感じだ。

imadokino business tobira
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ライター:

フリーランス歴30年。ビジネス雑誌、教育雑誌などを中心に取材執筆を重ねてる。小学生から90代の人生の大先輩まで取材者数約4,500人。企業トップは500人以上。最近はイラストも描いている。座右の銘「地の塩」。

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