
静まり返る職場に、怒声が響く。電話口の相手が聞き取れないほどの大声。その矛先は部下ではなく、上司に向けられていた。
大阪府の自治体で発覚したのは、「逆パワハラ」と呼ばれる現象だ。なぜ“下の立場”のはずの部下が、上司を追い詰めることができたのか。その背景には、役職では測れない力関係の歪みが潜んでいた。
「電話が聞こえない」現場で何が起きていたのか
吹田市は、市民室主査の職員(47)に対し、減給10分の1・3カ月の懲戒処分を下した。
発端は2024年9月頃。異動してきたばかりの上司に対し、その職員は業務の進め方をめぐり繰り返し詰問を行っていた。
「どうして分からないんですか」
「それでは仕事になりません」
言葉だけを見れば業務上の指摘に聞こえる。しかし、その声は次第に大きくなり、周囲の電話対応に支障が出るほどだったという。
フロアの空気は張り詰め、誰も口を挟めない。上司はただ、言葉を受け止めるしかなかった。
それは指導ではなく、圧力だった。
なぜ「逆パワハラ」は見逃されるのか
実際、部下から上司へのハラスメントは珍しくないという。
それでも問題が表面化しにくいのは、多くの人がパワハラを「上から下」の構図でしか捉えていないからだ。
「部下が強く言うのは問題ない」
「上司は耐えるべき立場だ」
そうした思い込みが、行為のエスカレートを招く。さらに、被害を受けた上司自身も「自分の能力不足ではないか」と考え、相談をためらう。
結果として、問題は静かに深刻化していく。
役職ではない「優越的立場」という現実
今回の事案の核心は、「優越的立場」という見えにくい力関係にある。
パワハラは、単に役職の上下だけで判断されるものではない。専門知識や経験、業務上の依存関係もまた、力の差を生み出す要素となる。
厚生労働省の指針でも、部下が業務に不可欠な知識を持ち、上司がその協力なしに業務を進められない場合、その部下は実質的に優位な立場になるとされている 。
つまり、形式上は「部下」であっても、実務の現場では「上位」に立つことがあり得る。
このねじれが、今回のような構図を生み出した。
「正論」が人を追い詰める瞬間
現場で交わされていた言葉は、必ずしも間違いではなかった可能性がある。
しかし問題は、「何を言ったか」ではなく「どう言ったか」にある。
強い口調、繰り返される指摘、逃げ場のない状況。
それらが重なったとき、相手の就業環境は確実に損なわれる。
正論は、ときに暴力になる。
「自分は正しい」という確信は、行為を止めるどころか、むしろ加速させる。
そのとき本人は気づかない。自分が境界を越えていることに。
なぜ逆転は起きるのか 職場の構造変化
こうした逆転現象の背景には、職場環境の変化がある。
ITや専門分野では、若手の方が知識を持つ場面が増えている。年功序列の崩壊により、「経験=優位性」という図式は揺らいだ。
さらに、ハラスメントへの意識の高まりが、上司の発言を抑制している。
強く言えば問題になるかもしれない。その不安が、指導の難しさを増幅させる。
こうして、見えない力関係が静かに入れ替わる。
見えない業務、見えない負担
上司の仕事は、目に見えにくい。調整や責任、判断といった役割は、成果として可視化されにくい。
一方で部下は、日々の業務を通じて「なぜできないのか」という疑問を抱く。
その疑問が共有されないまま蓄積されると、不満はやがて攻撃へと変わる。
逆パワハラは、個人の問題というよりも、「見えないもの同士の衝突」として起きる側面が強い。
誰もが加害者になり得る時代
今回の処分が示したのは、立場に関係なくハラスメントは成立するという現実だ。
重要なのは、「自分は関係ない」という前提を捨てることにある。
強制ではなく選択肢を示す。
感情ではなく冷静に伝える。
そして、業務と無関係な言葉を持ち込まない。
さらに、「相手をお客様だと思う」という視点も有効だ。
その意識だけで、言葉の温度は変わる。
問われるのは組織の“可視化力”
今回の事案は、単なる一職員の問題ではない。
組織が持つ構造そのものを映し出している。
役割の共有が不足し、業務が見えず、相互理解が進まないとき、関係は簡単に歪む。
そして、その歪みは声の大きさとなって表れる。
今回の事案は、どこでも起こり得る。
だからこそ必要なのは、問題を防ぐこと以上に、「見える状態にする」ことだ。
見えない力関係を可視化できるかどうか。
それが、これからの組織に問われている。



