
俳優・ナレーターとして長く活躍した森本レオさんの訃報を受け、SNSでは出演作や独特の語り口を懐かしむ声が広がった。一方、過去に報じられた女性関係などを改めて取り上げる投稿も相次いだ。
この動きに苦言を呈したのが落語家の立川志らくだ。Xで、亡くなった人まで炎上の対象にする風潮へ疑問を投げかけた。だが、問題は「死者を批判するのは不謹慎か」という話だけではない。人が亡くなったとき、その人の功績と過去の問題を社会はどう記憶するのか。SNS時代の訃報は、追悼と再評価が同時に起きる場になっている。
森本レオさんの訃報で、なぜ過去まで掘り返されたのか
森本さんは9月4日に83歳で亡くなり、所属事務所が11日に発表した。俳優として数多くの作品に出演し、『きかんしゃトーマス』のナレーションなどでも親しまれた人物だけに、訃報後は多くの追悼の言葉が寄せられた。
その一方で、SNSでは過去の報道を紹介する投稿も広がった。訃報を悼む人から見れば、亡くなった直後に昔の問題を持ち出す行為は故人への攻撃にも映る。一方、「亡くなったからといって、過去まで語ってはいけないのか」という反論も成り立つ。ここに、今回の議論の難しさがある。
訃報は「その人を検索する日」になった
人が亡くなると、名前の検索は一気に増える。出演作や経歴を調べるうちに、過去の記事や昔の騒動にもたどり着く。著名人の死後、ニュースやSNS上で言及が急増することは研究でも確認されており、訃報はその人物への関心が最も高まる瞬間の一つだ。
以前との大きな違いは、昔の記事が消えずに残っていることだ。かつてなら忘れられていた出来事も、今は検索すれば数秒で見つかる。Xやニュースサイト、動画、まとめ投稿が一斉に掘り起こされることで、訃報と同時に「その人はどんな人生を送ったのか」という再評価も始まる。
昔の「追悼」はメディアが作っていた
テレビや新聞が情報発信の中心だった時代、著名人の訃報では代表作や功績、人柄を振り返るのが一般的だった。何を紹介するかは、編集部や番組側が選んでいたため、社会が目にする「故人の姿」もある程度はメディアによって形づくられていた。
SNSでは、その役割を誰もが担う。ある人は代表作を投稿し、別の人は昔のインタビューを紹介する。さらに別の人は過去の問題を掘り起こす。同じ人物について、追悼と批判が同じタイムラインに並ぶ。それが現在の訃報だ。
「死者を批判するな」と「過去を消すな」の衝突
志らくの問題提起に共感する人がいるのも分かる。亡くなった直後は遺族や関係者が悲しみの中にいる。そこで故人への批判を一斉に浴びせれば、本人ではなく残された人たちを傷つける場合もある。SNSでは、事実確認が不十分な古い情報や出典の分からない話まで一緒に拡散される危険もある。
一方、「故人への敬意」を理由に過去の問題まで封じれば、その人物像が功績だけで塗り替えられる。亡くなったという事実で、その人の歴史まで変わるわけではない。追悼と過去の検証は、本来別々に考えるべきものだ。
「死による美化」が問題を見えにくくすることも
その難しさが表れた一例が、ジャニー喜多川氏をめぐる報道だ。2019年の死去時には功績を振り返る報道が多く、その後、性加害問題が大きく取り上げられると、国内メディアが生前から十分に問題を検証してこなかった姿勢まで問われた。
もちろん森本さんのケースとは事情も問題の性質も異なる。ただ、「亡くなった人について何を語り、何を語らないのか」が、後の社会的評価を左右する点では共通する。故人を悼むことと、過去を検証することは両立する。
SNSでは「いつ語るか」まで評価される
もう一つ難しいのが、発信するタイミングだ。訃報直後に過去の問題を投稿すれば、「なぜ今なのか」という反発が起きやすい。数カ月後なら、同じ内容でも受け止められ方は変わる。
しかも訃報直後は注目が集まりやすい。普段ならほとんど読まれない投稿でも、大きく拡散する可能性がある。そのため、過去を検証する目的の発信と、注目を集めるための発信が同じ場所に混ざる。SNSでは「何を言ったか」だけでなく、「なぜ今言ったのか」まで見られる。
問題は「過去を語るか」より「どう語るか」
だからといって、訃報後の過去への言及をすべて「炎上目的」と決めつけるのも危うい。社会的に検証する意味のある事実もあれば、根拠の乏しい噂や単なる悪口もある。本来は分けて考えるべきものだ。
大切なのは、確認された事実なのか。古い記事なら、その後に訂正や新事実が出ていないか。社会的に振り返る意味があるのか。それとも、本人が反論できない状態で攻撃を重ねているだけなのか。死者について語ること自体より、その語り方の方が問われている。
死後の評判まで「検索結果」が作る時代
かつて著名人の死後に残るイメージは、作品や新聞記事、テレビの追悼番組などによって形づくられてきた。今はそこにSNSと検索結果が加わった。功績も過去の問題も、同じ画面上に並ぶ。
森本さんの訃報と志らくの問題提起が映し出したのは、その変化だ。故人への敬意は必要だが、死によって過去の事実が書き換わるわけでもない。問われているのは「死者の過去を語っていいか」ではなく、事実と憶測を分け、追悼と検証を混同せずに扱えるかだ。SNS時代、私たちは人が死後どう記憶されるかまで作る側になっている。



