
人手不足が慢性化する日本で、外国籍の人材は貴重な担い手になりつつある。だが、その受け入れの現場には、いまも見えない壁がある。求人票に「国籍不問」と書かれていても、書類選考の段階で見送られる。言葉や文化の違いへの不安から、企業は採用に踏み切れない。
一方の外国人材は、なぜ通らないのか分からないまま、不採用を重ねていく。この壁の両側に立ち、就労から住まい、教育、生活までをひとつに束ねて支える会社がある。兵庫県尼崎市に本社を置くWBPグループ株式会社だ。
代表取締役の五十嵐一氏自身が、かつてモンゴルの草原から来日し、言葉も分からないまま尼崎で暮らしを立て直した一人だった。支えられる側から、支える側へ。その原体験から生まれた事業のかたちを聞いた。

「見えない壁」の正体
五十嵐氏がこの事業を着想したのは、日本の大手人材会社で働いていた頃のことだ。当時は日本人を中心とした人材紹介を担っていたが、現場には常に一定数の外国人求職者がいた。求職者が10人いれば、そのうち2人ほどは外国籍。中には日本語も堪能で、スキルも経験も十分に備えた優秀な人材が少なくなかった。
だが、いざ企業に紹介しようとすると、話は進まない。「外国人は難しい」「現場が対応できない」。そうした理由で、書類選考の段階で見送られてしまう。求人票の「国籍不問」は、あくまで表向きの言葉にすぎなかった。

五十嵐氏
「どの会社も、どの大学のどの学部から何人採るか、社内の計画ではほとんど決まっている場合が多いです。表向きは国籍も学歴も年齢も問わないと書いてあるけれど、実際にはターゲットが絞られている。だから、そこに当てはまらない人は全部パスされてしまう。頼ってもらっているのに、結果を出せない。そのもどかしさが、ずっと心に残っていました」
採用する側に回って初めて、五十嵐氏はその「からくり」を知った。同時に思い出したのは、自分自身がかつて味わった現実だ。就職活動では80社以上に応募し、履歴書の国籍欄を見られた時点で、面接にすら進めないことも珍しくなかった。日本に憧れて留学し、日本の大学まで出ても、就職が決まらない。ならば、外国人を本当に必要とする企業と、日本で働きたい人だけをつなぐ会社があればいい。2016年、32歳での独立だった。
「仕事の先」まで引き受ける
WBPグループが掲げるのは、外国籍の人が日本で暮らすうえでのあらゆる困りごとを、ワンストップで解決するという考え方だ。アルバイトや就職の紹介にとどまらず、ビザ、住まい、教育、家族の事情まで。仕事を見つけて終わりではなく、その人が日本に根を張るところまでを支える。
この仕組みを支えているのが、社員の構成だ。同社では、社員の約7割から8割を外国籍の社員が占める。いずれも日本の四年制大学を卒業し、ビジネスレベルの日本語を身につけた人材を新卒で採用して育ててきた。ミャンマー出身の相談者にはミャンマー人の社員が、中国出身の相談者には中国人の社員が対応する。
「表面的な会話なら、私たちでもできます。でも、本人の現地の事情や文化、習慣まで理解して、腹を割って話せる仲になるには相当な時間がかかる。同じ国の出身者どうしなら、そのハードルが一気に下がるんです。『実はビザがあと半年しかない』『子どもは日本で教育を受けさせたい』。そんな話が次々と出てきて、私たちがひとつずつ解決していく。そうすると、お客さんと切っても切れない関係ができるんですね」
さらに同社が独特なのは、人材を紹介するだけでは終わらないところにある。紹介先の企業の商品を、自ら仕入れて海外へ売るのだ。たとえば尼崎のあるチョコレートメーカーでは、製造や販売、事務の人材を紹介して定着を支えながら、その工場のチョコレートを買い取り、海外のスーパーやコンビニへ卸している。社員の多くが母国にネットワークを持つからこそ、成り立つ流れだ。
日本で働く人を支え、その職場の商品を海外で売る。二つの事業は、別々のようでいて分かちがたく結びついている。

コロナが教えた「多角化」
もっとも、この形にたどり着くまでは平坦ではなかった。転機のひとつが、コロナ禍である。当時、同社はインバウンドやホテル、空港関連の仕事を主軸にしていた。それが、ほぼゼロになった。取引の約9割を失い、仕事も住まいもない人、母国から来られなくなった内定者がそこかしこに生まれた。
「非常事態になれば、アルバイトや派遣から切られていくのは、ある意味わかりやすいことです。切られること自体を、私は悪いとは思っていません。ただ、私たちが紹介した人たちだけは、なんとか切られない状況をつくらなければいけない。そう考えて、一気に多角化を進めました」
人材事業に加え、不動産、教育、ビルメンテナンス、そして商社。毎年一つ二つと領域を増やし、事業の柱を分散させてきた。取引先の商品を自ら買い取るのも、この延長線上にある。万一、国内で売れなくなっても、海外で売り伸ばせば、その職場の仕事は守られる。多角化は、外国人材と取引先の双方を、非常時から守るための備えでもあった。
「郷に入れば郷に従え」と、平等という原則
外国人材をめぐっては、SNSを中心に、心ないまなざしが向けられることもある。一部の事件やトラブルが切り取られ、偏見として広がっていく。この社会課題に当事者として向き合う立場から、五十嵐氏の考えははっきりしている。
「日本に来る以上は、日本のルールを守り、マナーや文化を尊重してほしい。私はそういう思いで教育をしています。もし日本のルールを守れないなら、さっさと帰ってくれというのが、私たちの立場です」
その姿勢は、受け入れの入り口で明確なフィルターとなる。同社が連れてくるのは、地域や職場に溶け込む意志のある人だけだ。背景には、悪質な仲介業者の存在もある。半ば騙すように人を連れてくる業者と関わったために、本来は真面目だった人が、日本に来てから道を外れてしまう。そうしたケースが、外国人材全体のイメージを損なっていると五十嵐氏は見る。
平等という原則も、徹底している。たとえばイスラム教徒の人材を紹介する際も、企業に特別な配慮を求めることはしない。祈りの場所や時間を用意してほしいと伝えることもない。
「一般の日本人社員を採用するのと、まったく同じ、平等に扱ってくださいとお願いしています。本人にも、入る会社の就業規則やルールを守って働けるかどうかを、事前にきちんと説明したうえで来てもらう。だから、宗教を理由にトラブルになったことは、これまでに一度もありません」
近年、在留資格などの制度が整えられてきたことは、同社にとってむしろ追い風だという。正しいことを、正しくやってきた。そう言い切れるからこそ、後ろめたさはない。受け入れに悩む企業がいれば、いくらでもやり直せる。そう伝えたいと、五十嵐氏は語る。

草原から尼崎へ、恩を循環させる
こうした考え方の根には、五十嵐氏自身の歩みがある。モンゴルの草原で、遊牧民の家に生まれた。決して豊かではない暮らしのなか、中学を終えると進学の資金が尽きた。転機となったのは、家に泊まりに来た日本人夫婦の一言だった。「高校へ行きなさい。支援しますから」。
その夫婦は、尼崎の人だった。学費だけでなく、来日の費用から生活まで、家族同然に支え続けてくれた。2004年、20歳で降り立った尼崎で、五十嵐氏は住む場所と同時に、「安心できる居場所」を得た。新聞配達と居酒屋のアルバイトで学費を稼ぎながら、関西国際大学で心理学を学んだ。居酒屋の常連たちは彼を「アニキ」と呼び、仕事終わりに食事へ連れて行ってくれた。困っている人を放っておけない。この街で触れた精神が、いまの仕事の原点になっている。
支えてくれた人たちを、五十嵐氏は「お節介」と表現する。
「お世話になったおじさん、おばさんたちは、すごくお節介だったんです。その言葉が、私は大好きで。会社が良くなって世の中が良くなるのは、もちろん大事です。でも、その前にいちばん大事なのは、うちの社員なんです。まずは社員に、豊かになってもらいたい」
その思いは、組織のかたちにも表れている。同社では創業当初から、社員に「五年で何かを成してほしい」と伝えてきた。五年で独立する人、管理職を目指す人、それぞれでいい。今後は、独立を志す社員のために社内で新しい事業を立ち上げる、社内ベンチャーの仕組みも広げていく考えだ。一方で、65歳を超えた社員も毎年迎え入れている。20代が多い組織で足りない経験と知識を補い、若手の相談に乗り、時には取引先との関係を調整する。「ギネスブックに登録されるまで、みんなで働こう」。そんな言葉を、五十嵐氏は笑って口にする。
その視線の先には、大きな構想がある。2034年までに、グループを50社体制、売上300億円規模へ。そして、自らが持つ株式をすべて財団に寄付し、その配当で、かつての自分のように学びたくても学べない子どもたちへ、奨学金を届けたいという。
「もともと三食もままならなかった子どもが、日本のおかげで、こうして生かされてきました。その恩は、すべて尼崎に返したい。日本に来た日から、私は『日本人以上の日本人になろう』と思ってやってきました。その思いだけは、伝えたいんです」
支えられる側から、支える側へ。草原の一軒の家から始まった物語は、尼崎という街を舞台に、次の誰かへと循環していく。外国人材と日本社会をつなぐ「見えない壁」を、WBPグループはこれからも、一人ずつ、一社ずつ、こえていくのだろう。



