
漫画家が自らの作品を取り戻すために、出版社を相手取って法廷に立つ——。そんな異例の争いが、いま出版業界に静かな波紋を広げている。商業デビュー作を含む3作品について、契約期間が事実上定められず、印税も支払われないまま配信され続けてきたとして、漫画家のカトウロカ氏が版元の株式会社Bevyを提訴した。
本人がX上で経緯を詳細に明かすと、同業の作家や読者から驚きと共感の声が殺到。一人の漫画家の訴えは、業界に根を張る契約慣行そのものへの問いかけへと広がりつつある。
契約期間は事実上無期限、印税はゼロ 8年間続いた「作品が返ってこない」状態
NHKによると、漫画家の女性が、都内の出版社と結んだ出版契約について「期間が事実上無期限なのに印税が支払われず、一方的な内容だ」として、出版権がすでに消滅していることの確認を求める訴えを起こした。同局はこれを「異例の訴え」と報じている。この原告が、自身のXアカウントで実名を明かして経緯を綴ったカトウロカ氏である。
カトウロカ氏が問題にしているのは、株式会社Bevyと交わした出版契約の中身だ。本人の説明によれば、契約には二つの重大な特徴があった。一つは契約期間の定めがなく、半永久的に効力が続く点。もう一つは印税が設定されておらず、作品がどれだけ売れても対価が一切発生しない点である。
連載が始まったのは2017年、コミックスの刊行が2018年のこと。それから約8年にわたり、カトウロカ氏の作品は電子書店で配信され続けてきた。だが、その間に同氏の手元へ入った印税は1円もない。自らが生み出した作品が売れても、それが作者に還元されない——。カトウロカ氏はこの状態を「地獄かと思った」と振り返っている。
契約当時、同氏は駆け出しの漫画家だった。比較できる他社の契約書を持たず、言われるがままに署名したという。異常さに気づいたのは、後に別の出版社と契約を結ぶ際、初めて一般的な契約書を目にしたときだった。同氏がその後やり取りした複数の会社の中で、こうした内容の契約書はBevyだけだったと明かしている。
「死んでも配信停止はしない」 配信停止を求めた作者への対応
事態が深刻化した背景には、カトウロカ氏が過去に配信停止を申し入れた際の、版元側の対応がある。
担当編集への不信感と、印税が発生しない契約のもとで仕事を続けることへの限界から、同氏はかつて配信停止を求めるメールを送った。すると、直後にかかってきた電話で告げられたのは、拒絶の言葉だったという。カトウロカ氏の説明では、担当者は配信を止めることはできないとし、作者の死後も長期間にわたって停止できない旨を口にした。さらにメールでは、配信停止を求める権利は作者にはない、という趣旨の返答まで届いたとしている。
会社側のマネージャーに問い合わせても、対応は変わらなかった。同氏によれば、こちらに落ち度はない、納得して契約したのだから意見は通らない、配信停止を要求すれば会社への損害とみなして法的措置を取る——という内容の返信があったという。高圧的な言い回しと、弁護士の存在をちらつかせる姿勢に、当時の同氏は萎縮し、いったんは諦めざるを得なかった。できたのは、作品に「完結マーク」を付けてもらうことだけだった。
読者には連載終了を知らせたものの、何が起きたのかを詳しく伝えることはできなかった。続きはどこかで読めないのかと尋ねられ、描けたら描くと答えたまま、筆は進まなかった。会社名や担当者と同じ姓を目にするたびに動悸がし、自分の作品を見ることさえつらかったと、同氏は当時の心境を明かしている。
提訴の決定打となった「守秘義務」 読者への不誠実さに踏み切る
転機は約1年前に訪れた。あるきっかけから弁護士を立て、カトウロカ氏は再び交渉に臨む。代理人が版元とやり取りを重ねた結果、半年後の配信停止という着地点が一度は見えてきた。永久に停止はできないと言われ続けてきただけに、ようやく自分の作品が返ってくると、同氏は胸をなでおろしたという。
ところが、ここで新たな条件が突きつけられる。配信停止の件をいつ読者に告知してよいか尋ねたところ、和解で解除に応じる場合は守秘義務を負い、配信が停止することなどを読者に一切発信してはならない、と求められたのだ。配信停止の前も後も、作品に関する話題を一切口にできない——そうした内容だった。
これまで対価を支払ってきた読者に対して、何も告げずに作品を消すことになる。カトウロカ氏はこの条件を「あまりにも読者に誠実じゃない」と受け止めた。黙って配信を終える和解の道もあったはずだが、同氏はそれを選ばなかった。自分だけの問題ではなく、作品を読んでくれた読者にも、そして業界全体にも関わる問題だと考えたからだ。提訴を決めたのは、まさにこの瞬間だったという。
この裁判は前例が乏しく、判決の行方は見通せないと同氏自身も述べている。それでも、どちらに転んでも業界にとって大切な意味を持つ争いになる、との認識を示している。なお、現在の配信を担当する出版社は今回の件とは無関係であり、弁護士を紹介したのもその版元だったと、カトウロカ氏は念を押している。
同業の漫画家からも共感と証言 「仕事を受けてはいけない出版社」
カトウロカ氏の投稿は瞬く間に拡散され、X上には同情と驚きの声があふれた。表示回数は26万件を超え、多くのクリエイターが反応している。
漫画家の藤井セイラ氏は「奴隷契約すぎてびっくり…。裁判勝てますように」と反応。別名義で漫画を手がけたという投稿者の一人は、過去に同じ会社と仕事をしかけたが連絡がつかず、結果的に関わらずに済んだと明かし、「泣き寝入りしてきた方たくさんいると思う」と綴った。小説家のしろうるり氏も、期間の定めのない契約は片方が解除を申し入れれば解除できるものではないのかと疑問を呈しつつ、作者側の請求が認められることを願うとした。
中には、こうした契約自体が無効なのではないかという指摘や、解除できない契約の正当性を問う声もあった。別名義で活動する複数の作家が「見たことのない契約内容」と口をそろえており、Bevyの契約が業界内でも際立って特異なものだったことがうかがえる。
一方で、生成AIを活用してでも契約書は隅々まで読むべきだった、という趣旨の冷静な指摘も見られた。駆け出しの作家が不利な契約を見抜くことの難しさと、それを支える仕組みの乏しさが、改めて浮き彫りになった形だ。
買い切りに等しい契約構造 創作者の尊厳と業界慣行への問い
今回問われているのは、作品を生み出した当人が、その作品のコントロールを完全に失い、対価も得られないまま半永久的に流通させられるという、契約構造そのものの妥当性である。
出版契約における出版権は、本来、一定の期間を区切って設定され、条件が折り合わなければ作者が取り戻せる余地を残すのが通例だ。だが、期間の定めがなく印税も発生しない契約は、作者から作品を事実上「買い切る」に等しい効果を持ちかねない。しかも、それがアンソロジーのような共同掲載や、著作権を買い取る前提の企画ではなく、作者の商業デビュー作にまで及んでいた点に、今回の事案の重さがある。この違いは、カトウロカ氏自身が、通常の契約期間が定められた作品や、印税の発生しない共同掲載作品とは「全く違う」と繰り返し強調しているところでもある。
X上では、昭和から続く搾取的な体質がこの業界には多すぎる、といった嘆きや、日本漫画家協会や大手出版社が業界ルールを整備すべきだという提言も相次いだ。一人の作家が声を上げたことで、個々の契約の問題を超え、作り手を守る枠組みそのものへの関心が高まっている。
熱心な読者は、作品を買い支え、次の世代へ語り継いでいく大切な存在だ。その読者に向けてすら作品の行方を語れない——そんな状況を生む契約が、はたして健全と言えるのか。カトウロカ氏の訴えは、創作者の尊厳と、読者への誠実さという、業界が長く向き合ってこなかった問いを突きつけている。
判決が出るのはまだ先のことだという。それでも、この一件がどう決着するかは、不利な契約に苦しんできた多くの作り手にとって、そして作品を愛する読者にとって、無視できない意味を持つことになるだろう。前例の乏しい法廷闘争の行方を、静かに見守りたい。



