
W杯決勝トーナメント1回戦、日本代表がブラジルに1-2で敗れた。その試合後、ヒューストンのピッチには、勝敗だけでは片づけられない数分間が残った。涙を流す田中碧に寄り添い、顔を近づけて声をかけたブラジル代表FWマテウス・クーニャは、その直後、塩貝健人に向けて5本の指を突きつけたのだ。慰めと挑発、敬意と怒り。あまりにも違う二つの振る舞いが同じ選手から出たことで、ブラジル戦の余韻はただの惜敗では終わらなかった。
田中碧の涙に手を伸ばしたクーニャ
試合終了の笛が鳴った瞬間、ブラジルの選手たちは歓喜を爆発させ、日本の選手たちはその場に立ち尽くした。前半29分に佐野海舟が先制点を奪い、王国ブラジルを相手に日本が先にスコアを動かした試合は、後半にカゼミーロの同点弾を浴び、さらにアディショナルタイムにガブリエウ・マルティネッリの決勝点を許してひっくり返された。あと数分、あと一つのプレーで歴史が変わるかもしれないところまで行きながら、日本はまた決勝トーナメントの壁の前で止められた。
その重さをもっとも濃く背負っていたのが田中碧だった。終盤の失点に絡んだ悔しさが押し寄せたのか、田中はピッチに崩れ落ち、顔を上げられないまま涙を流した。歓声、笛、選手たちの足音が入り混じる中で、先に近づいたのは味方だけではなかった。クーニャが田中のもとへ歩み寄り、顔に手を添えるようにして言葉をかけ、抱き寄せるように励ました。勝った側の余裕を見せつける場面ではない。目の前の相手がどれほど深く傷ついているかを、同じピッチにいた選手として見逃せなかったように映った。
この場面に日本のファンが反応したのは自然だった。ブラジルに敗れた悔しさの中で、相手選手が田中の痛みに触れようとした姿は、激闘のあとに残る救いのようにも見えた。田中の涙は、ひとつのミスへの後悔だけではない。日本が長く求めてきた景色に手を伸ばしながら、指先で逃した痛みだった。その涙にクーニャが近づいたことで、試合後の空気は一瞬、勝者と敗者の境目を失った。
塩貝健人へ向けた5本指 空気を裂いた王国のプライド
だが、その印象はすぐに別の場面で揺さぶられた。クーニャは日本ベンチ側へ向かい、5本の指を立てて感情をあらわにした。意味ははっきりしていた。ブラジルはワールドカップを5度制している。世界一の回数を示すその手は、ただの数字ではなく、黄色いユニホームに積み重なった歴史を突きつけるものだった。
きっかけは、試合前の塩貝健人の発言だった。ブラジルについて、昔は強かったが今はどうなのか、という趣旨の言葉を口にした。日本の若いFWが、強豪を前に名前だけで萎縮しない姿勢を見せたとも取れる。だが、その言葉はブラジル側に、王国を軽く扱う響きで届いた。クーニャにとっては、若手の強気として笑って流せるものではなかったのだろう。
ブラジル代表のユニホームは、ただの試合着ではない。ペレ、ロナウド、ロナウジーニョ、ネイマールといった名前が重なり、世界中の選手が一度は見上げてきた色である。今のブラジルが、かつてほど圧倒的に見えない時期があったとしても、その歴史は消えない。クーニャは日本代表には敬意を持っているとしたうえで、塩貝の発言にはブラジルへの理解が足りなかったという趣旨を語っている。誰よりも上だと思いたいわけではないが、ブラジルより上の存在もいない。そう言い切る言葉には、勝った選手の高揚だけではなく、外から踏み込まれた誇りを押し返すような熱があった。
ブラジルを前に腰を引かなかった塩貝の言葉は、日本代表がここまで積み上げてきた自信の表れでもあった。だが、本人がピッチで返す機会のないまま日本が敗れたことで、その強気だけがブラジルの怒りにさらされた。出場機会を得られなかった塩貝にとって、クーニャの5本指は、ワールドカップが言葉まで飲み込む場所だと知らされる苦い場面になった。
同じ選手の中にあった優しさと怒り
田中碧には寄り添い、塩貝健人には怒りを向ける。その落差に、ネット上では困惑の声が広がった。同じ人物とは思えない、良い人なのか悪い人なのかわからない。だが、本人の中では矛盾していなかったのかもしれない。田中に向けたのは、全力で戦い、最後に崩れ落ちた選手への敬意。塩貝に向けたのは、自分たちの歴史を軽く見られたと感じた怒りだった。相手の痛みに手を伸ばす感情と、国の誇りに踏み込まれて牙をむく感情が、同じ試合後のピッチで続けて表に出た。
田中を慰めた姿だけを見れば、クーニャは相手の痛みに寄り添える選手に映る。塩貝への挑発だけを見れば、勝ったあとに相手を煽った選手にも見える。だが、あの数分間に出ていたのは、どちらか一方の顔ではなかった。目の前で泣き崩れた選手には手を伸ばし、自分たちの歴史を軽く扱われたと感じた相手には怒りを返す。そこにあったのは、ワールドカップの熱にさらされた人間のむき出しの反応だった。
日本代表がブラジルを本気にさせた夜
この試合で日本は、ただ敗れたわけではない。前半に先制し、ブラジルに焦りを生み、最後の数分まで勝負を残した。だからこそ、敗戦は軽くない。田中碧の涙は、ブラジルに善戦した満足ではなく、勝てたかもしれない試合を落とした痛みそのものだった。あと少しで届きそうだったからこそ、届かなかった現実が深く刺さる。
ブラジルにとっても、日本戦は簡単な通過点ではなかったはずだ。勝って当然の相手を予定通りに退けた試合なら、クーニャの感情があそこまで表に出る必要はない。日本が王国の看板に傷をつけかねない相手だったから、ブラジルは怒り、叫び、5本の指を突きつけた。あのジェスチャーは日本への挑発であり、同時に、日本がブラジルの誇りを本気で揺らすところまで来た証しでもある。
田中碧を慰めたクーニャと、塩貝健人を挑発したクーニャ。あの数分間には、相手を認める敬意と、王国の誇りを傷つけられた怒りが同時に出ていた。日本は敗れたが、ブラジルを焦らせ、怒らせ、最後まで本気にさせた。ピッチに残った田中の涙と、クーニャが突きつけた5本の指は、その試合がただの惜敗ではなかったことを物語っている。



