
収録スタジオの空気は軽かった。料理の手際を褒める流れの中で、司会者が笑顔で言葉を添える。「いいお嫁さんになれますね」。場は和み、笑いが起きる。だが、その一言は、画面の外では別の意味を帯び始めていた。香港の民主活動家・周庭さんが示した違和感は、日本社会に根づく“無意識の前提”を浮かび上がらせることになる。
テレビの中で繰り返される「定型句」
「いいお嫁さんになれますね」という言葉は、特定の番組に限ったものではない。料理番組、情報バラエティ、街頭インタビュー——日常的な場面で、女性の家事能力や気配りを褒める際に使われてきた。
例えば、手際よく料理を仕上げる出演者に対し、司会者が軽やかに投げかける。あるいは、整理整頓が得意な女性に対し、「家庭的」という評価を込めて口にされる。そこには悪意はなく、むしろ場を和ませる“便利な言葉”として機能してきた。
だが、この言葉が前提としているものは何か。それが、今回の議論の出発点となった。
周庭さんが感じた「訳がわからない」
周庭さんは、香港の民主派政党の創設メンバーの一人として知られる活動家だ。2019年の抗議活動に関わり、禁錮刑を受けた後、2023年からカナダで生活している。民主化を訴え続けた結果、故郷に戻れない状況にある。
その彼女が、日本のテレビ番組を見ていて違和感を覚えたのが、この「いいお嫁さんになれますね」という表現だった。
「外国人の私にとって本当に訳がわからない」
率直な言葉だった。さらに、「もし自分がこうして褒められても嬉しくない」と続け、その理由として「女性の価値が結婚に結びつけられているように感じる」と指摘した。
そして、「料理が上手ですね」「部屋がきれいですね」といった、行為そのものを直接褒める言葉の方が自然ではないかと提案した。
この発言は、多くの共感を呼ぶと同時に、強い反発も招いた。
「褒めたつもり」と「押しつけられた」の距離
発言する側にとって、「いいお嫁さんになれますね」は褒め言葉だった。料理ができる、気配りができる、家庭的である。そうした複数の長所をまとめて表現する、日本語らしい言い回しである。
しかし、受け取る側にとってはどうか。
その言葉は、「結婚」という前提を含んで聞こえることがある。さらに、「女性は家庭に入るもの」「家事ができることが価値につながる」という価値観を押しつけられたように感じることもある。
ここにあるのは、意図の問題ではない。言葉が持つ“背景”の問題だ。
善意で発せられた言葉が、別の意味で受け取られる。そのズレは、誰かが悪いから起きるのではなく、社会の価値観が変化しているからこそ生じる。
SNSが増幅させた「すれ違い」
周庭さんの投稿は、SNS上で急速に拡散した。「確かに違和感がある」という声がある一方で、「ただの褒め言葉ではないか」「文化の違いだ」という反応も目立った。
さらに議論は、言葉の是非から逸れ、「反日」などのレッテル貼りへと広がっていく。
SNSでは、発言の文脈よりも、発言者の立場や属性が先に判断されやすい。その結果、「なぜそう感じたのか」という本来の問いが置き去りになる。
だが、今回の問題の本質は対立ではない。すれ違いである。
多様性とは「どちらも認めること」か
今回の議論で繰り返し登場したのが、「多様性」という言葉だ。
一方では、「昔ながらの価値観を持つ人も多様性の一部ではないか」という意見がある。結婚を望む人、「いいお嫁さん」と言われて嬉しい人がいるのも事実だ。
他方で、周庭さんが訴えたのは、「その価値観をすべての人に当てはめないでほしい」ということだった。
つまり、多様性とは単に価値観が複数ある状態ではない。それらを“押しつけない”ことを含んでいる。
「いいお嫁さん」と言う自由と、それに違和感を示す自由。その両方が存在できるかどうかが問われている。
褒め言葉はどこを見ているのか
「いいお嫁さんになれますね」という言葉は、相手の“未来”を評価している。
一方で、「料理が上手ですね」という言葉は、“今の行動”をそのまま認めている。
この違いは小さく見えて、大きい。未来に結びつける褒め方は、無意識のうちに特定の生き方を前提にしてしまう。対して、現在の行動を評価する言葉は、その人の選択を縛らない。
褒め言葉は、本来、相手を自由にするもののはずだ。だが、形を間違えれば、可能性を狭める言葉にもなる。
「怖いですね」ににじむ経験の重さ
周庭さんは、その後の投稿で「怖いですね」と率直な感想を漏らした。自分の意見を述べただけで強い批判にさらされた経験が、その一言ににじむ。
彼女は、「多様性のために努力してきた結果、故郷にも帰れなくなった」とも語っている。
この言葉の重さは軽くない。だからこそ、今回の発言は単なる文化論では終わらない。「異なる意見をどう扱うか」という、社会の根本的な問題を浮かび上がらせている。
その一言は誰のためのものか
スタジオで交わされる何気ない一言。それは場を和ませるためのものだったはずだ。
だが、その言葉は本当に、目の前の相手を見ていたのか。それとも、どこかにある「理想像」を当てはめていただけなのか。
「いいお嫁さんになれますね」という言葉が問いかけているのは、言葉の正しさではない。私たちが誰を見て、何を評価しているのかという視点そのものだ。
ほんの少し言葉を変えるだけで、誰かを縛ることなく褒めることはできる。その積み重ねが、会話を失わせるのではなく、むしろ広げていく。



