
山形県のお茶の間で、お昼のワイド番組のMCとして快活に笑い、自ら企画したコーナーで地域の人々と触れ合う一人の青年がいた。「明日が来るのが待ち遠しい」。天職とも言えるアナウンサーという夢を叶え、充実した日々を送っていた彼が、数年後、東京の老舗印刷会社で経営の陣頭指揮を執ることになるとは、当時の視聴者の誰も想像しなかっただろう。
現在、東京・八丁堀に本社を構える株式会社白橋で取締役副社長を務める白橋昌磨氏、その人である。
1925年(大正14年)に「東京帳簿印刷」として創業し、長らく金融機関の帳票や年賀状の印刷で強みを発揮してきた白橋。同社は今年で創業100年という節目を迎えた。

年賀状を出す文化が薄れ、あらゆるビジネスシーンでペーパーレス化が進む今、印刷業界は厳しい冬の時代にあると囁かれている。しかし、白橋はこの逆風の中で、単なる「紙にインクを乗せる受託業」からの脱却を果たし、デジタル技術を駆使した営業支援カンパニーへと驚異的なトランスフォームを遂げようとしている。
元証券マンであり、元テレビ局アナウンサー。全く異なる世界で泥水をすすり、またスポットライトを浴びてきた異色の次期4代目は、いかにして古い体質の印刷業界に風穴を開けたのか。彼が描くステークホルダーと共に歩む次なる100年のビジョンに迫った。
アナウンサーの夢、証券マンとしての「ドブ板営業」、そして見えた紙の限界
老舗印刷会社の跡取りとして生を受けた白橋氏だが、当初は家業を継ぐ意思は全くなかったという。東京で生まれ育ち、「テレビ局のアナウンサーになる」という夢を追いかけてキー局の試験に挑んでいた。しかし、就職活動の最中に東日本大震災が発生する。

「東北へボランティアに行き、自分と同世代の若者が犠牲になった現実に直面しました。『人はいつ死ぬか分からない。家業を継ぐ気はないけれど、ちゃんと就職して自立しよう』と決意したんです」
そうして飛び込んだのが、当時激しい営業文化で知られていた証券業界(SMBC日興証券)だった。現社長である父親からの「会社を継がないで勝手に就職するなら、人気企業ランキングで俺がお前の修行先に、と思っていた会社より上の会社しか認めない」という厳しい条件をクリアしての入社だったが、そこには想像を絶する過酷な日々が待っていた。
「毎日毎日、自転車で住宅街を駆け回り、復興国債を買ってくれそうな個人宅のポストに何千枚、何万枚とチラシを投函し続ける日々でした。ピンポンを押しては断られ、またチラシを入れる。精神的にも肉体的にも極限状態でした」
しかし、この泥臭い原体験が、のちの白橋のビジネスモデルを根底から覆すインスピレーションとなる。
「あれだけ大量のチラシを撒いても、営業マンには『一体誰が読んでくれたのか』が全く分からないんです。もし『このチラシを今、あの家の人が手にとって読んだ』ということが分かれば、無駄な飛び込み営業を減らし、最適なタイミングでアプローチできるのに……と、当時は本気で悔しく思っていました」
その後、証券マンとして優秀な成績を残した白橋氏は、胸の奥底にあった夢を捨てきれず、恩師の後押しもあって山形の「さくらんぼテレビ」のアナウンサーへと見事な転身を果たす。「証券会社時代のように四季報が飛んでくることもないし、本当に毎日が楽しかった」と笑う白橋氏だが、その夢のような時間は、父親からの「そろそろ帰ってこい。自分の人生を生きてないで、バトンを引き継げ」という一本の電話で幕を閉じることとなる。
コロナ禍の直撃。「音の消えた工場」で誓ったビジネスモデルの変革

テレビ局を円満退社し、2020年1月、白橋氏は取締役として家業に足を踏み入れた。しかし、直後に新型コロナウイルスのパンデミックが世界を襲う。
「入社してすぐ、工場から音が消えました。ステイホームが叫ばれ、人々が対面で会う機会が激減したことで、名刺やイベント向けの印刷物、プロモーションツールの需要が一瞬にして蒸発したんです。印刷会社って、人と人が会う前提で成り立っていたビジネスなんだと痛感させられました。機械のメンテナンスだけをする日々の中で、ただ紙に印刷するだけのビジネスモデルからの脱却が急務だと悟りました」
印刷業界は長年、コモディティ化の波に晒されてきた。どこの会社も同じメーカーの印刷機を導入しているため、「紙の質」や「インクの乗り」だけで圧倒的な差別化を図るのは難しい。そこで白橋副社長が着目したのが、同社が古くから得意としていた「小ロット多品種のデジタル印刷(バリアブル印刷)」のノウハウだった。
大企業向けに、社員一人ひとりの情報が異なる名刺を効率よく受注・印刷するシステムを自社開発してきた白橋の強み。これを、自身の証券マン時代の「誰が読んだか分からない」という悔しさと結びつけることはできないか。
そうして生み出されたのが、現在急速に引き合いを伸ばしている「MYCM」だ。名刺に印字された個別のQRコードを相手がスマートフォンで読み込むと、自社のPR動画が再生される。最大の特徴は、「いつ、誰がQRコードを読み込んだか」が、名刺を渡した営業担当者にリアルタイムで通知される点だ。ただの紙切れが、顧客の関心度を測る強力なデジタルの営業ツールへと進化したのである。
さらに、このMYCMの裏側には、白橋副社長のアナウンサー時代のメディア人脈がフルに活かされている。
「動画の制作は、私がテレビ局時代に繋がりを持ったディレクターやクリエイター陣に請け負ってもらっています。テレビ業界も今、AIの台頭などで仕事のあり方が変わり、優秀なディレクターの時間が空くことがある。彼らの空きリソースをうまく束ねることで、テレビクオリティの高品質なPR動画を、5万円からという破格の安さで提供できるスキームを構築しました」
異業種での経験が、100年企業の新たな武器として見事に結実した瞬間だった。
印刷業を「ストックビジネス」へ。2026年3月本格リリースの『MY DM』
そして白橋は、この特許技術をさらにダイレクトメールに応用した新サービス『MY DM』を、2026年3月に本格リリースする。

『MY DM』は、DMの一枚一枚に顧客ごとに異なる可変のQRコードを印字し、送付先の誰がアクションを起こしたかをリアルタイムで把握できるシステムだ。AさんがQRコードを読み込んだ瞬間、営業担当のスマホにアラートが鳴る。その熱が冷めないうちに電話をかけるか、訪問すれば、成約率は劇的に跳ね上がる。
「証券マン時代に何万枚とポスティングして報われなかった、あの『ドブ板営業』の無駄をなくすシステムです。しかし、この『MY DM』の真の狙いは、印刷業のストックビジネス化にあります」と白橋副社長は熱を込める。
印刷会社はこれまで、注文を受けて刷って納品して終わりのフロービジネスだった。しかし『MY DM』を使えば、「Aさんはどの商品に興味を持ったか」「Bさんはいつアクセスしたか」という顧客の行動ログが、白橋の提供するシステム上に蓄積されていく。このデータ資産がある限り、顧客は他社の安いネット印刷に乗り換える理由がなくなる。白橋に印刷を任せ続けること自体が、顧客の営業利益に直結するからだ。
「安売り競争に巻き込まれず、お客様の伴走者として長くお付き合いするための仕組みです。これこそが、私たちが導き出したDXの最適解だと確信しています」
「会社は社員を食わせる道具。ただのバトンだ」——ステークホルダーと歩む次の時代

白橋副社長の大胆なトランスフォームは、社内の意識も大きく変えつつある。ベテランの職人たちも、若きリーダーの情熱と「MY DM」という明確な結果を前に、次なる挑戦へと背中を押してくれているという。
取材の終盤、経営において何よりも大切にしている信念を問うと、白橋副社長は現社長である父親から言われた厳しくも温かい言葉を口にした。
「社長からは『会社というのは、社員の給料を稼ぐための道具でしかない。その道具をどううまく使うかが経営者の手腕だ』と言われました。そして『これはお前の会社ではない。ただのバトンだ。勘違いして調子に乗るな。俺も前の世代から引き継ぐための人生だったし、お前もそうだ』と」
100年という歴史の重み。それは決して白橋家という一族だけのものではない。祖父の代には、活版印刷からオフセット印刷への大きな痛みを伴う転換があった。そして白橋副社長の代では、オフセットからデジタル、そしてデータビジネスへの転換期を迎えている。時代に合わせて形は変わっても、根底にあるのは「ステークホルダーの信頼に応え、社員の生活を守る」という普遍的な使命だ。

実は、白橋が長年所有する八丁堀のビルは、あの「ヤクルト」が創業期にオフィスとして間借りした場所でもある。
「ヤクルト様のように、うちの場所から大きく羽ばたいていった企業があることは誇りです。現在も金融機関や食品メーカー、物流、保険など、長年にわたって苦楽を共にしてきた多くのステークホルダーがいらっしゃいます。印刷という枠組みにとらわれず、そうしたお客様の課題を総合的に解決できるプロデュース集団になっていきたい」
先人たちが紡いできた強固なステークホルダーとの絆という資産を背負い、異色の4代目は次なる時代へと果敢に挑む。証券マンの泥臭さと、アナウンサーの伝える力。その両方を併せ持つ若き経営者が振るうバトンは、古い殻を破り、新たな価値をまとった老舗の快進撃を、これからも力強く牽引していくことだろう。



