
1921年の創業以来、マドラスは100年以上にわたり「本物の履き心地」を追求してきた。その長い歴史に、いま大きな変化が起きている。
2023年に登場した医療用ゲルを活用したリカバリー・メタインソールシリーズが、国内外で高い評価を集め、銀座店では訪日客が数歩の試し履きだけで購入を決める“新しいヒット商品”へと成長しているからだ。
足裏の立体形状に沿って支え、二重ゲル構造で圧力を逃がすという従来の中敷きには見られない発想は、革靴だけでなく婦人ヒールにまで波及し、「7cmヒールなのに歩きやすい」と驚きを呼んでいる。革靴市場の縮小が続くなか、マドラスの技術は“歩行の本質”へと踏み込むことで、新たな支持を獲得しつつある。
ここからは、代表取締役社長・岩田達七氏の語りを中心に、その背景と技術思想を紐解いていく。
直感が動いた日 “1000%伸びても戻る素材”との出会い

変化の起点は、2020年のコロナ禍だった。外出を控える日々の中、岩田社長は何気なく見ていたテレビ番組で、医療用“クリスタルゲル”という素材に出会う。臓器モデルにも使われる特殊素材で、1000%伸びても元に戻るという説明を聞いた瞬間、胸の奥の“長年の疑問”にひとつの答えが浮かんだ。
「これなら、土踏まずにぴたりと沿う靴がつくれるかもしれない。」
若い頃から岩田社長は、靴業界の構造的な限界を感じていた。日本の靴づくりは長く“欧米のデザインを日本人向けに調整する”という発想が中心で、履き心地そのものの研究は充分とは言えなかった。多くの革靴で“土踏まずが浮く”違和感は消えず、「本当に足に合う靴は作れないのか」という問いが心に残り続けていたという。
直感が動いた翌日、社長はすぐさま社内へ調査を指示し、岐阜のクリスタルゲルメーカーへアポイントを取った。70代のトップが“翌日行動”に移るスピードこそ、老舗企業が変わり続けられる理由だ。
「動けば、道は開ける。動かなければ、何も始まらない。」
半年の試作と“身体の反応” 歩きながらつかんだ構造
メーカーとの協業が始まると、試作は想像以上に難航した。クリスタルゲルは医療分野で実績ある高性能素材だが、靴に転用するとなれば硬さ・厚さ・耐久性・戻りの速度など、多くの要素が絡み合う。
「靴は履いて初めて本当の姿が分かります。数字では判断できない。」
試作品が上がるたびに、岩田社長は会社近くの公園を毎日のように歩いた。少しでも違和感があれば、すぐに「やり直し」を依頼する。半年以上、これを繰り返した。歩き、また歩き、そして気づいたことがある。
「土踏まずが押されているような、指圧に近い感覚があった。」
この“予期せぬ気づき”を確かめるため、社長は長年多くの足を診てきた指圧の専門家に試作品を持ち込んだ。結果は予想以上だった。
「こんな靴は初めて。明確に指圧効果があります。」
プロフェッショナルの一言が、技術の方向性が正しいことを裏付けた。クリスタルゲルを使ったリカバリー・メタインソールは、足裏の立体形状を忠実に再現し、土踏まずは医療ゲルを二重構造にして支える。この設計によって、歩行時の荷重が一点に集中せず、足裏全体に圧力が分散される。
さらに血行促進効果は一般的なインソール比で約20%向上し、歩行後も持続するというデータも得られた。
裸足の歩行を靴で再現 “踵から歩く必要はない”という発見

技術検証が進む中、岩田社長は歩行そのものに対するある確信を強めていく。
「人間は本来、踵から歩く構造にはなっていないんです。」
お風呂場を裸足で歩けば、誰もが足裏全体を使う“ぺたぺた”とした歩き方になる。それが自然な歩行であり、関節や筋肉に最も無理がない。革靴文化の中心にある“踵着地”は欧米的歩行の前提であり、日本人の足には必ずしも即していない。
だからこそ、マドラスのインソールは、「裸足で地面を歩くときの自然な動きを、靴の中で再現する」という設計思想にたどり着いた。
「歩行は日常の最小単位です。そこが変われば、疲れも、姿勢も、生活の質も変わる。」
革靴をファッションから“身体の道具”へとアップデートする発想が、この新シリーズを“再発明”と呼ぶにふさわしい理由である。
そしてこの思想は、予想外の市場で大きく花開くことになる。
市場を変えた“歩きやすさ” 7cmヒールの逆転と、インバウンドの熱
リカバリー・メタインソールは、2023年に単体販売が始まり、同年から紳士靴・婦人靴に採用された。2024年には自社ブランドすべてが標準搭載へと切り替わる。
すると、最も大きな反応を示したのは婦人靴だった。
「銀座店では、7cmヒールがいちばん売れる日があります。」
歩くことを前提にすると“苦痛の象徴”であったヒールが、歩きやすさによって“買いたい靴”へと変わった。これは業界の常識を覆す現象である。
さらに2024年秋以降、インバウンドが急増。銀座店ではある日、8割が外国人の購入者という日も生まれた。タクシー広告やSNSを見て来店するケースが多く、口コミは言語や文化の壁を軽々と越えて広がっている。
「良い靴は、数歩で分かる。」
岩田社長が繰り返すこの言葉は、老舗の技術が“身体感覚”を通じて世界へ届いている実感の裏返しでもある。
名古屋本社を起点としながら、香港・タイへの展開も始まり、今後の東南アジア進出も視野に入る。
次の100年へ 子どもの足を守る、社会的意義ある挑戦
マドラスの挑戦は、大人向け製品にとどまらない。
岩田社長が強調するのは“ジュニア向けインソール”の必要性だ。
「足のアーチは10歳までに決まります。そこで誤れば、一生苦労することになる。」
日本の子どもは偏平足傾向が強いとされ、歩行発達を支える靴選びは社会課題とも言える。同社はすでにジュニア版リカバリー・メタインソールの試作を終え、2026年の発売を目指している。
「足は身体の基礎です。子どもの足を守ることは、社会を守ることに直結します。」
老舗企業が100年を越えてなお変化を続ける理由が、この言葉には凝縮されている。
数歩歩くだけで、表情が変わる。その“わずかな違い”こそが、100年企業の革靴を再発明し、次の未来へ静かに押し出している。



