先の読めない時代だと言われる中、その対応策として経済産業省を中心に、日本国は積極的に人的資本経営に取り組んでいます。
しかし人的資本経営の内容について把握できていない人も多いのではないでしょうか。
そこで今回の記事では、新たな時代に乗り遅れないために必要不可欠だと言われている人的資本経営について、わかりやすく解説します。
人的資本経営とは
人的資本経営とは人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です。
今まで人材は「資源」とみなされ、人材の確保・育成・組織の構築にかけるお金はコストとして扱われていました。
しかし人的資本経営では、人材を「資本」として捉えているため、コストではなく「投資」とみなされます。
つまり人的資本経営とは、人材に対して投資を行い、人材の価値を最大限に引き出すことで企業価値を高めていく経営手法です。
人的資本経営が注目される背景
なぜ、人的資本経営への取り組みが推奨されているのか、その背景について詳しくみていきましょう。
VUCA時代の到来
VUCA時代とは、世界中で起こっているデジタル技術の発展、紛争や混乱などの緊迫した情勢、気候変動などによるビジネス環境の変化により、組織や個人の役割なども大きく変化したために、将来を予測することが困難になった時代を指します。
ちなみに、VUCA時代とは下記4つの頭文字から取られた造語です。
- Volatility:変動性
- Uncertainty:不確実性
- Complexity:複雑性
- Ambiguity:曖昧性
VUCA時代の到来は、IoT(Internet of Thingsの略)、AI(Artificial Intelligenceの略)、ビッグデータなどのデジタル技術によって引き起こされた第四次産業革命が大きく関わっています。
特にIoTによって様々なものがインターネットを介してつながるようになったため、今まで関係性の全くなかったものが複雑に絡み合うこととなりました。
その結果、どのようなイノベーションが起こるのかが全く予測ができなくなってしまったのです。
このような時代では、企業は社員が最大限に力を発揮できる環境を整えなければ、新たな挑戦を行うのは困難です。
そういった意味でも、VUCA時代においては人的資本経営という考え方の重要性が増していくことが予想されます。
人的資本指標の開示に向かう海外の動向
海外では、人的資本指標を開示する姿勢が強まっています。
2018年12月に国際標準化機構(ISO)が人的資本に関する情報開示のガイドライン(ISO30414)を制定したり、米国証券取引委員会(SEC)や欧州委員会(EC)が人的資本を含む非財務・サステナビリティ等の情報開示を義務化したことなどが背景にあります。
グローバルに展開している大手企業約300社を対象に、PwCコンサルティング合同会社が行った人的資本指標の開示割合調査をみると、2013年から2021年にかけて、下記に示したような主要な指標については、平均して2.2倍も開示率が増加しています。
- 社員1名当たり報酬
- 社員1名当たり人件費
- 女性管理職比率
- エンゲージメントスコア
- 欠勤率
- 退職率
- 社員1人当たり育成時間
- 社員1人当たり育成コスト
特に「社員1人当たりの育成コスト」については、開示率は4倍となっています。
このことから、持続的な事業成長を成すためには人材を育成し、人材のパフォーマンスをあげることが必要だと、多数の企業が考えていることが伺えます。
人的資本経営を行うメリット
ここでは人的資本経営がもたらす代表的な3つのメリットについて具体的に説明します。
企業の評価が向上し採用しやすくなる
人的資本経営に取り組むということは、社員の価値を評価し、社員育成に力を入れることを意味します。
求職者が開示された人的資本指標などの情報を目にすれば、働きがいのある会社であるという企業イメージにつながります。
その結果、採用市場における企業の評価はあがり。優秀な人材を採用することができるようになります。そして、企業の競争力は強化されることで、優秀な人材が集まってくるようになるわけです。
適材適所が実現し生産性があがる
人的資本経営は、人が企業価値を高める源泉であると考えて適材適所を実現するマネジメントを行いますので、生産性が向上します。
具体的には、まず社員それぞれのスキルや能力をデータ(数値)化して、状況を把握します。
そして、労使双方が個々の状況を把握し、目指すべき姿を定め、具体的なスキル向上を意識して、仕事を行うようにします。
そうなれば、社員も常に自己成長を実感することができ、モチベーションは向上します。
また、可視化された個人情報を基に適材適所を考えますので、専門的スキルやノウハウを持ったスペシャリストを生み出すことができるようになり、生産性が上がっていきます。
投資家からの評価があがる
人的資本経営に積極的に取り組むということは、ESG投資を行う投資家が評価しやすい企業だと表明することにもつながり、投資家からの評価があがりやすくなります。
ちなみに、ESG投資とは、「環境(Environment)」「社会(Social)」「ガバナンス(Governance)」の頭文字からつけられた略称です。
投資家は、企業戦略や経営指針、SDGsへの取り組みなど、非財務情報を指標として投資先を評価するようになってきています。
人的資本指標も非財務情報の1つですので。人的資本経営を行うことは投資家が求める情報開示を実現していることになり、評価をあげることにつながっていくわけです。
人的資本経営と人材戦略との違い
人的資本経営は、人材を企業の資本と捉えているという点が人事戦略と大きく違います。
内閣官房の非財務情報可視化研究会が出した「人的資本可視化指針」には、人材の能力や意欲が向上することが企業価値を創造する源泉であるため、「資本」として考えるべきであると記載されています。
人的資本への投資は、短期的な時間軸でみると利益を押し下げるため、資本効率を低下させるものだと見られがちでした。
しかし、企業の競争優位の源泉や持続的な企業価値向上の推進力は、人的資本への投資によって成し遂げられるとの考え方が、人的資本経営によって理解されるようになってきています。
そして、人材を資本として捉えるということは、企業が将来の成長・収益力を確保するためにどのような人材戦略を行っているのか、投資家などへの情報公開義務が発生します。
つまり、「人的資本の可視化」が不可欠となっている点が、人材戦略との大きな違いです。
人的資本経営 | 人事戦略 | |
労使間の関係 | 外向き・労使が共に選び選ばれる | 内向き・囲い込み |
戦略を考える担当者 | 経営陣・CHRO | 人事部・人事部長 |
人材マネジメントの目的 | 適切な投資を行い効果を可視化 | コスト管理・労務管理 |
経済産業省が公表した人材版伊藤レポートとは
伊藤レポートとは、2014年8月に経済産業省が開催した「『持続的成長への競争力とインセンティブ〜企業と投資家の望ましい関係構築〜』プロジェクト」の最終報告書を指します。
座長を務めた伊藤邦雄氏は日本の会計学者です。収益性が低迷した日本企業の競争力を強化し、継続的な成長につながることを目的に開催され、複数のレポートが発表されています。
そのうちのひとつである人材版伊藤レポートは、2020年は企業経営における人材戦略の現状とあるべき姿との比較をしながら、人的資本経営の3P・5Fモデルについて提言しています。
ちなみに3P5Fモデルとは、企業価値を高めるための人材戦略に必要な「3つの視点(Perspectives)」と、戦略に組み込むべき「5つの共通要素( Factors)」を示した人材戦略の枠組みです。
〇3P:3つの視点
- 経営戦略と連動しているか
- 目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか
- 人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促し、企業文化として定着しているか
〇5F:5つの共通要素
- 企業価値の向上につながる人材戦略のために、目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、多様な個 人が活躍する人材ポートフォリオを構築できているかという要素(動的な人材ポートフォリオ)
- 個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトプット・アウトカムにつながる環境にあ るのか(知・経験のダイバーシティ&インクルージョン)
- 目指すべき 将来と現在との間のスキルギャップを埋めていく(リスキル・学び直し)
- 多様な個人が主体的、意欲的に取り組めているか(社員エンゲージメン ト)
- 「時間や場所にとらわれない働き方」
人材版伊藤レポートが作成された目的は、それぞれの企業が人的資本経営に具体的に取り組むことができるように指針を世に示すことです。
従って、レポートにある内容をそのまま取り入れるのではなく、もっと有効な手段を考えるためのきっかけ作りであると考えた方がよいでしょう。
経営戦略と人材戦略との一体化
経営戦略とは、企業活動を行う環境下において、自社の経営目的や経営目標を達成するためにたてた方針や計画全般を指しています。
一方で人材戦略とは、企業活動において自社の経営目的や経営目標を達成するための人事・人材面での戦略を指します。
つまり、人材戦略とは、経営戦略の1つの手段であるため、経営戦略と人材戦略は一致している必要があります。
従来の日本企業では、経営戦略に関わるのは経営者や経営企画室などに在籍する社員に限定されており、人事部門はあくまでもコストセンター(利益を生まない部門)だと考えられていました。
しかし、グローバル化やDXの推進などにより、経営環境が激しく変化を続けているため、経営陣からのトップダウンによるオペレーションを中心とした組織では対応しきれなくなってきました。
つまり、変化に対応できる人材を最大限に活かすことができなければ、市場での優位性が保てなくなったわけです。
このような理由から、経営戦略と人事戦略との一体化が、人材版伊藤レポート2.0に言及されることになったのです。
情報開示が義務化された7分野19項目
有価証券報告書を発行する大手企業4000社には、2023年3月決算期から義務化されている人的資本の情報開示ですが、内容をしっかり把握できていない企業も多数存在しているようです。
ここでは、開示が求められる項目についてご紹介いたします。
(1)人材育成 | ・リーダーシップ ・育成 ・スキル/経験 |
(2)エンゲージメント | ・エンゲージメント |
(3)流動性 | ・採用 ・維持 ・サクセッション |
(4)ダイバーシティ | ・ダイバーシティ ・非差別 ・育児休業 |
(5)健康・安全 | ・精神的健康 ・身体的健康 ・安全 |
(6)労働慣行 | ・労働慣行 ・児童労働/強制労働 ・賃金の公正性 ・福利厚生 ・組合との関係 |
(7)コンプライアンス/倫理 | ・コンプライアンス/倫理 |
(1)人材育成
人材育成分野で開示する情報は、社員一人当たりの研修時間や研修費、研修や教育の効果などが挙げられます。
(2)エンゲージメント
エンゲージメント(従業員満足度)分野で開示する情報は、アンケートなどで得られる職場環境に対する満足度や業務内容のやりがいなどが挙げられます。
(3)流動性
流動性分野で開示する情報は、離職率や定着率、採用費などが挙げられます。
(4)ダイバーシティ
ダイバーシティ(多様性)分野で開示する情報は、年齢や性別、障害の有無などの従業員の構成率や、役員の男女比、育児休暇や有給休暇などの取得率などが挙げられます。
(5)健康・安全
健康・安全分野で開示する情報は、労働災害の発生率や健康・安全に関する取り組みなどが挙げられます。
(6)労働慣行
労働慣行分野で開示する情報は、労使が対等の立場で労働条件について交渉する団体交渉協定の対象となる社員の割合や、福利厚生の内容などが挙げられます。
(7)コンプライアンス/倫理
コンプライアンス/倫理分野で開示する情報は、コンプライアンスや倫理に関する研修を受けた従業員の割合や、苦情の発生件数などが挙げられます。
企業が取り組むべき課題と具体例
人的資本経営に取り組むためにはどのような課題に取り組むべきなのか、具体例をあげながら説明していきます。
経営理念や経営戦略の明確化
デジタル技術の発展や世界情勢の変化、温暖化など、激しく変化する外部環境に対応し、持続的な企業成長を実現させるためには、時代に合わせて経営戦略を見直す必要があります。
もちろん、創業当初から受け継がれてきた経営理念までも捨て去る必要はありません。
しかし同時に、環境の変化を曖昧にしておいてよいものでもありません。人は困難に立ち向かう際には、進むべき「よりどころ」を軸にして判断していきます。
その「よりどころ」こそが経営理念だからです。経営理念によって企業の存在意義を明確にし、今後目指すべき経営戦略を従業員に明示することで、正しい道に進むことができるようになります。
CHROの設置
CHROとは「Chief Human Resource Officer(最高人事責任者)」の略称です。
旧来の日本的な組織では「執行役員人事部長」や「取締役人事部長」にあたる役職となります。CHROが人事部長と大きく異なるのは、経営陣の一員として経営に責任をもって業務に当たるという点です。
そのためには経営戦略について深く理解し、経営戦略と連動した人材戦略を経営陣に提示・実行する必要があります。
刻々と変化するビジネス環境や人事の潮流を読み解き、会社を変革に導くためには、時には社員の心を動かし、行動の変化を促さなければなりません。
確固たる信念を持ち、リーダーシップを発揮できるCHROの存在は、人材資源経営の実現へと導いてくれるでしょう。
人材マネジメント手法の改革
人的資本経営とは、社員をコストと見なすのではなく、価値創造の源泉であると捉える考え方です。
したがって、企業価値を高めるためには社員の価値を向上させるようなマネジメントを行わなければなりません。
そのためには、正確に社員のスキル・能力の情報把握とデータ(数値)化が必要不可欠です。
旧来の人材マネジメントは勤怠管理や結果の評価に留まっており、社員の能力を把握するような仕組みはありませんでした。
社員それぞれのスキルや経験を明確にし、目指すべき姿とのギャップを可視化しなければ、適切な指導や学習機会の提供はできません。
従業員エンゲージメントの改革
従業員エンゲージメントとは、雇用主である企業と社員との間で、相互理解がどれだけ進んでおり、お互いに愛着を感じているのか、その度合いを指しています。
情熱を持って仕事に打ち込めるかどうかに直結しているため、生産性にも大きく影響します。
従業員エンゲージメントを向上させるためには、下記項目の実践が不可欠です。
- 企業が目指している姿と現在の自分の姿のギャップを診断して定量化する
- ギャップをなくすための具体的な改善案を考えて自己変革を実行する
- 改善案の方針や進捗度合を社内外に公表することで企業価値の向上につなげる
上記3項目を循環させる仕組みを構築することで、従業員エンゲージメントは向上していきます。
例えば企業と従業員の相互理解・相思相愛度合いを数値化したエンゲージメントスコアを策定し、定期的にチェックシートで効果測定を行うなどの手法が考えられます。
リスキルや学習への投資
日本の生産性を向上させるためには、DX推進をさらに加速化させる必要がありますが、情報通信白書(2022)の調査によると、日本企業の67.6%がDX推進を妨げている要因として人材不足をあげています。
これは、米国(26.9%)、ドイツ(50.8%)、中国(56.1%)の3か国に比べ、突出した数値です。
まさにこれこそが人的資本経営が重要視されている理由です。DX人材不足を認識しているのであれば、学び直し(リスキリング)に対して積極的な投資を行うべきです。
教育により社員の労働時間が削られるという発想こそが、人的資本経営を軽視している姿勢であるといえます。
例えば、ダイキン工業株式会社は、デジタル人材を育成するためにダイキン情報技術大学を設立し、AI・IoTの活用を推進しています。
具体的には、大阪大学などの教育機関から講師を招き、全従業員を対象とし、AIリテラシー向上のための「AI活用講座」、技術系社員を対象とした「AI技術開発講座」、「システム開発講座」などを実施しています。
また、各部門の実際の課題をヒアリングして、実際置かれている状況に基づいた演習「PBL(Project Based Learning)」を取り入れることで、AI・IoTを事業開発や技術開発に生かすことができるエキスパートを育成しています。
まとめ
今後の企業活動を推進していく力は、財務資本・製造資本といった有形資産から、人的資本・知的資本などの無形資産へと変化しています。
つまり、「人的資本経営」に対する企業の取り組みは、経常利益率やブランド価値などと並び、その投資内容自体が評価されつつあるのです。
2023年時点では有価証券報告書を発行する大手企業のみに情報開示義務が課せられていますが、経済産業省が積極的に取り組んでいる姿勢をみても、その範囲は拡大されていくでしょう。
従って、会社の規模を問わず、早めの対応が求められています。