
もし酒だったら、とっくに治療している。
進学校に通う10代の少年は、ゲームにのめり込み学校へ行けなくなった。なぜゲーム依存は「趣味」ではなく「治療対象」として語られるようになったのか。その先に見えてきたのは、静かになりすぎた子どもたちと、失われつつある“退屈な時間”だった。
「たかがゲーム」で病院に来た優等生
成績は良かった。中学受験にも合格した。テニス部にも所属していた。親から見れば安心材料ばかりで、どこにでもいる普通の中学生だった。ゲームは好きだった。だが、それは珍しいことではない。友達と遊び、部活へ行き、宿題もする。多くの家庭にいる”ゲーム好きな男の子”の一人だった。だから誰も気づかなかった。まさか数年後、そのゲームが学校より優先される日が来るとは。
依存症対策全国センターが公開している症例によると、転機はクラスでの人間関係だった。学校へ行く足が少しずつ重くなり、現実から逃げるようにゲームへ向かった。最初は気晴らしだったのかもしれない。だが、気づけば昼夜は逆転し、食事は一日一回。学校から遠ざかるほどゲームの時間は増え、ゲームの時間が増えるほど学校へ戻りにくくなった。検査では低栄養や骨密度の低下が見られ、肺年齢は70代相当と評価されたという。まだ10代の少年の話である。
さらに保護者がゲーム機を取り上げると暴言や暴力が始まった。これで終わると思った親の予想は外れる。翌日、少年は新しいゲーム機を持って帰宅した。深夜のゲーム大会で稼いだ賞金で中古品を買ったのだという。
ここまで読んで、”たかがゲーム”と思う人はいるだろうか。もし酒だったらどうだろう。学校へ行かない。食事を取らない。昼夜が逆転する。家族に暴言を吐く。病院へ連れて行く親は多いはずだ。ところが原因がゲームになると、私たちの判断は急に甘くなる。「男の子だし」「今の時代だから」「まぁそのうち飽きるだろう」便利な言葉である、考えなくて済むからだ。
アメリカの森にある“ゲーム依存”のリハビリ施設
ゲーム依存は日本だけの話ではない。
アメリカ・ワシントン州の森の中には、「リスタート」というリハビリ施設がある。アルコールでも薬物でもない。ゲームやインターネットにのめり込み、生活が壊れてしまった若者たちが暮らす施設だ。スマホは禁止。ゲーム機も禁止。テレビもラジオもない。家族との連絡は電話だけ。文章を書くならタイプライター。まるで時代を巻き戻したような生活である。
ロイターによると、施設へ入った若者たちは最初の数日から苦しむ。不安になる。怒りっぽくなる。何もやる気が起きなくなる。中には端末を隠し持ち込もうとする者までいるという。
依存症と聞けば酒や薬物を思い浮かべる人が多い。だが現場では、ゲームや動画、SNSも同じ土俵で語られ始めている。実際、日本でも久里浜医療センターなどでゲーム障害やネット依存の相談が行われている。アメリカの特殊な話ではない。すでに日本でも治療の対象として扱われている現実がある。なぜ、そこまで問題視されるのか?理由は単純。ゲームは楽しいからではない、やめられなくなるからだ。
ランドセルの中のデジタル麻薬

”デジタル麻薬”という言葉は大げさだろうか。そう思う人もいるかもしれない。だが総務省によると、インターネット利用率は6〜12歳で8割を超え、10代ではほぼ全員に達している。もはやスクリーンは特別な娯楽ではない。空気のような存在だ。子どもたちは消えたわけではない。塾へ行く。習い事へ行く。友達とも遊ぶ。だが、その合間を埋めるようにスクリーンが入り込んでいる。
病院の待合室。親の買い物。車での移動。料理が運ばれてくるまでの数分間。昔なら退屈だった時間だ。
今は違う。退屈になる前に画面が現れる。息を吸うようにスマホを開き、息を吐くように画面をスクロールする。それはあまりにも自然な光景になった。だから怖い。かつて依存症には営業時間があった。酒場は閉まりパチンコ店も閉まる、だがスマホは閉まらない。ランドセルの中にもあり、枕元にもあり、ポケットの中にもある。24時間営業である。総務省の統計は利用率の上昇を示している。しかし数字よりも気になるのは風景の変化だ。電車の中で、病院で、ファミレスで、親を待つわずかな時間でさえ画面が埋めていく。
私たちは便利になった。しかし同時に、”何もしない時間”を少しずつ失っているのかもしれない。
静かな依存症
昔の親は「外で遊んできなさい」と言った。今の親は「少し静かにしていてね」と言う。もちろん事情はある。共働きも増えた。忙しい。動画を見せれば子どもは座ってくれるしゲームを渡せば騒がない。先生だって助かっている。そして子どもたちは静かになる。だが、その静けさは本当に成長の証なのだろうか?
ゲームが好きな子と、依存症になった子は違う。ゲームが好きな子は、時間になると不満そうな顔をしながらもやめる。でも依存症になった子は違う。やめられない、止めたら怒り、泣く。隠れてやる。親が寝た後ひっそり夜中に起きてやる。嘘をつき、それでも続ける。本人もやめた方がいいと分かっている。それでもやめられない。だから治療の現場では、アルコールや薬物依存と同じ目線で考え始めているのである。
見えにくいだけで、存在しないわけではない。むしろ静かだからこそ気づきにくい、それが現代の依存症なのかもしれない。近所の人から「最近の子どもは静かになったね」という声を聞くことがある。子どもの数が減ったこともあるだろう。だが、それだけでは説明できない違和感がある。
一見すると聞き分けがよく、おとなしい。だが本来、子どもは失敗しながら育つものだ。人とぶつかり、退屈し、工夫しながら大きくなる。その時間ごと、私たちはスクリーンに預けていないだろうか。
私たちはいつから”退屈”を悪者にしたのだろう
ゲーム依存について取材を始めたはずだった。だが最後に残ったのは、別の疑問だった。子どもの頃、親を待つ時間は退屈だった。病院の待合室も退屈だった。車の窓から流れる景色をぼんやり見ていた。天井を見つめていると、だんだん人の顔に見えてきたり、雲が動物に見えたり、葉っぱを一枚一枚眺めているだけで時間が過ぎていった。その時間はゆっくりと時を刻んだ。今思えば、何も起きていない時間だった。だが、その何も起きていない時間の中で、私たちは空想し、観察し、自分だけの世界を作っていた。
退屈は嫌われ者になった。大人は子どもを退屈させないようにする。暇があれば動画を見せる。待てばゲームを渡す。だが本当にそうだろうか。新しい遊びは退屈から生まれる。創造も退屈から生まれる。考える力も退屈から生まれる。
ゲーム依存の話をしているはずなのに、途中から妙な気持ちになる。問題はゲームだけではないのかもしれない。大人まで含めて、「待つこと」が苦手になっているのかもしれない。便利になった社会は多くのものを与えた。その代わりに奪ったものは何だったのか。静かな住宅街の夕方に、子どもたちの声は少なくなった。それは子どもが減ったからだけではないのかもしれない。退屈の中にこそ、人が育つための時間があった。
もしそうだとしたら。私たちは今、子どもたちから何を奪っているのだろうか。



