
オードリー若林正恭の初小説『青天』が、第175回直木賞候補に選ばれた。文藝春秋によると、同作は累計発行部数29万部を突破している。お笑い芸人が書いた小説という話題性はある。だが、それだけで直木賞候補には届かない。『青天』が描くのは、勝利ではなく、負けたあとも体に残り続ける青春の痛みである。
若林正恭『青天』が直木賞候補 話題性だけでは終わらない
第175回芥川賞、直木賞の候補作が発表され、直木賞候補にオードリー若林正恭の小説『青天』が入った。選考会は7月15日に都内で開かれる予定だ。『青天』は若林にとって初めての小説で、文藝春秋から2月に刊行された。発売後は書店で品薄になるほど反響を呼び、累計発行部数は29万部を突破している。候補作にはほかに、朝倉かすみ『けんぐゎい』、蝉谷めぐ実『見えるか保己一』、凪良ゆう『多類婚姻譚』、原田ひ香『#台所のあるところ』が並んだ。
芸人が小説を書けば、最初に見られるのはどうしても肩書きだ。若林正恭が書いたから売れたのではないか。オードリーの人気があるから話題になっただけではないか。そういう視線は当然ある。だが、29万部という数字と直木賞候補入りを、知名度だけで片づけるのは少し乱暴だ。小説は、買わせることはできても、最後まで読ませることは簡単ではない。ページをめくる手が止まれば、どれほど有名な書き手でもそこで終わる。
そもそも、漫才やコントは言葉と構成の仕事である。どこで情報を出し、どこで裏切り、どこで間を置くか。若林がテレビやラジオ、漫才の現場で磨いてきた感覚は、小説と無縁ではない。芸人なのに書けた、という見方には、どこか古い偏見が残る。むしろ若林は、長年言葉を扱ってきた表現者として、小説という別の競技に踏み込んだのだ。
『青天』が描いたのは、勝利ではなく「負けたあと」の時間
『青天』の舞台は1999年の東京。弱小アメリカンフットボール部に所属する主人公が、強豪校との引退試合に敗れたあと、自分自身のふがいなさにもがきながら、再びアメフトと向き合っていく物語だ。青春小説と呼べば確かにそうなのだが、その言葉だけでは少しきれいすぎる。若林が描いているのは、汗と友情と努力の爽やかな物語ではなく、負けたあとにいつまでも体の奥で鳴り続ける鈍い痛みである。
引退試合のホイッスルが鳴れば、部活は終わる。仲間たちはそれぞれの進路へ向かい、学校生活も何事もなかったように続いていく。ところが、人間の気持ちはそんなに都合よく区切れない。なぜあの場面で動けなかったのか。本当にやり切ったと言えるのか。誰かに責められているわけでもないのに、その問いだけは長く胸に居座り続ける。夜中にふと思い出し、数年後に同じ景色を見た瞬間によみがえることもある。『青天』が描いているのはアメフトそのものではなく、そうした「終わったはずの敗北が終わらない感覚」なのだ。
多くの人にとって、青春は勝利の記憶ではない。むしろ、届かなかったもの、言えなかった言葉、逃げた場面、途中で諦めたことのほうが長く残る。若林はそこを美談にしない。負けた人間をすぐに成長させず、痛みを抱えたまま歩かせる。そこに、この小説の生々しさがある。
アメフト経験者だから書けた、倒された人間の視点
若林は高校時代、相方の春日俊彰とともにアメリカンフットボール部に所属していた。その経験は、『青天』の土台になっている。アメフトを知らない読者にとって、競技のルールやポジションは難しく感じる部分もあるだろう。それでも物語に引き込まれるのは、若林が競技の説明ではなく、競技の中にいる人間の感情を書いているからだ。
体がぶつかる恐怖、倒された瞬間に見える空、仲間の声が遠くなる感覚、自分だけが置いていかれる焦り。そうした細部は、資料を読んだだけではなかなか出てこない。タイトルの『青天』は、アメフト用語であおむけに倒されることを指す。青空を思わせる爽やかな響きとは裏腹に、そこには倒された側の痛みと屈辱がある。この言葉をタイトルに据えた時点で、若林は勝者の物語を書くつもりなどなかったのだと思う。
若林のエッセーを読んできた人なら、自分の中の格好悪さから目をそらさない書き手だという印象を持っているだろう。嫉妬や劣等感、人付き合いの面倒くささといった、多くの人が見て見ぬふりをする感情を、笑いを交えながら何度も言葉にしてきた。その視線は『青天』でも変わらない。ただ今回は若林自身が前に出るのではなく、主人公のアリに託されている。敗北の記憶から抜け出せずにいる高校生の姿を追いながら、若林は結局、人が自分自身とどう折り合いをつけるのかを書こうとしているように見える。
芸人作家というラベルは、もう便利なだけの言葉ではない
若林の直木賞候補入りで、どうしても思い出されるのはピース又吉直樹の『火花』だ。又吉は2015年に芥川賞を受賞し、芸人が文学賞を獲ることへの世間の見方を変えた。NEWSの加藤シゲアキも『オルタネート』と『なれのはて』で直木賞候補に選ばれている。芸能活動と小説執筆を両立する人は、もはや特別な例外ではなくなった。
ただし、「芸人作家」という言葉は便利である一方、かなり雑でもある。芸人だから書けたのか。芸人なのによく書けたのか。そのどちらにも、どこか上から眺めるような響きが混じる。小説は肩書きでは残れない。知名度は入口にはなるが、読者を最後まで連れていけるかどうかは、文章と物語の力にかかっている。直木賞候補という場所まで来た以上、若林もまた肩書きの保護膜から外へ出されたと言っていい。
もちろん、受賞は簡単ではない。今回の候補には、すでに文学界で実績を積んできた作家たちが並ぶ。直木賞は話題性だけで決まる賞ではない。だからこそ、候補入りした事実の重みがある。芸人が書いたから珍しい、という段階を越え、作品として比較される場所に置かれた。これは祝福であると同時に、なかなか厳しいことでもある。
直木賞の結果よりも、若林正恭の「次の一作」が問われる
若林の候補入りを見ていて気になったのは、受賞するかどうかより、その先のことだった。『青天』はアメフトを題材にしている。しかも舞台は1999年。若林自身が高校時代に打ち込んだ競技であり、人生の原風景に近い場所でもある。だから作品全体に無理がない。競技の空気も、負けたあとの居心地の悪さも、自分の中に残り続ける後悔も、どこか体験の熱を帯びている。だが、小説家として見られるようになると話は変わる。読者が次に読むのは「芸人が書いた小説」ではなく、「若林正恭の新作」だからだ。まったく違う時代を舞台にしたらどうなるのか。自分とはかけ離れた人物を主人公にしたらどうなるのか。アメフトという強い武器を手放したとき、どんな物語を書くのか。候補入りによって生まれた期待は、賞の結果以上に大きい。
『青天』には、過去の敗戦から抜け出せない主人公が登場する。終わったはずの試合なのに、自分の中では終わっていない。その感覚は、ある意味で若林自身にも重なるのかもしれない。直木賞の受賞は来月には分かる。しかし、候補入りした時点で一つだけ確かなことがある。若林正恭はもう、「芸人だから」という言葉で評価を保留される場所にはいない。これから向き合うのは、作品そのものへの評価だ。賞の結果よりも、その先にどんな小説を書き続けるのか。読者の関心は、すでにそこへ向かい始めている。



