本稿では、渋沢栄一と同時代に活躍した岩崎弥太郎に象徴される財閥経営との対比において、渋沢の思想の特徴を浮き彫りにしていきたい。
ところで、この二人をグローバルな視点から見ると、日本を発展させた二大企業家として最高度の評点をつけるのはP.F.ドラッカーなのである。ドラッカーからは、二人はどう見えたのだろうか。
ドラッカーの渋沢、岩崎観
ドラッカーは、日本における両企業家のうち、特に渋沢栄一を高く評価し、『断絶の時代』(ダイヤモンド社)の中で次のように述べている。
“日本では経済発展を巡って20年に及ぶ論争があった。それは経済学者の間で行われたのではなかった。 実際に産業をつくり上げた二人の企業家の間で行われた。岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、日本の外では、 わずかの日本研究家が知るだけである。だが彼らの偉業は、 ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ。
岩崎は日本最大、世界最大級の企業集団三菱をつくった。渋沢は90年の生涯において600を超える会社をつくった。この二人が当時の製造業の過半をつくった。彼ら二人ほど大きな存在は他の国にはなかった。
この二人が、岩崎が51歳で早逝するまでの20年間、公の場で論じあった。 岩崎は資金を説いた。渋沢は人材を説いた。今日では二人とも正しいことが明らかである。
(略)
岩崎流の企業家精神が史上例のない資本形成をもたらし、 渋沢流の人材重視が30年後には史上例のない識字率と人材の形成をもたらした。 渋沢自身半世紀にわたって無給の指南役として活躍をつづけた。 多くの実業家、官僚の相談に乗り指導した。経済団体をつくり、教育訓練に携わり、あらゆる種類の講座、セミナー、討論会を組織した。 岩崎が企業群を遺したのに対し、渋沢は一流大学、一橋大学を遺した。“
ドラッカーの言う企業集団は財閥を指すことが明白であるが、実際に明治日本の産業振興において財閥の果たした役割は非常に大きい。一方、渋沢栄一も想像を絶する数の企業の立ち上げに関与し、出資もし、経営に参画しているわけだから企業集団とも言えるが、私的な財産形成を目的とする財閥に対して、渋沢は公益を第一に置いていた。
これが企業家としての渋沢栄一の見えにくさでもあるが、決定的な相違なのだ。それでは、どれほどに違うのか考察してみよう。
『立会略則』に現れる渋沢栄一の思想
渋沢の思想が端的に表れているものの一つに『立会略則』がある。渡辺和夫は『第一国立銀行の財務諸表と渋沢栄一』の中で『立会略則』の経緯に触れている。
「明治4年、大蔵省(当時、渋沢栄一在籍)は会社制度に関する2冊の啓蒙書を出版した。それらは『会社弁』および『立会略則』である。当時、一般の人びとは会社の仕組みについてほとんど無知であった。大蔵省は会社制度の普及を通じて企業活動の活性化を考えていた。その手始めに啓蒙活動が試みられたわけである。
『会社弁』は福地源一郎訳述、『立会略則』は渋沢栄一述とされている。前者は訳書であり、後者は著作になる。二人とも大蔵省に在職中であった。『会社弁』がウェーランドの経済学その他の諸書から抄訳してまとめられたものであるのに対し、『立会略則』は『会社弁』を読む者の参考として発行されたものである。渋沢の著作になる『立会略則』というのは会・ 社を設立・する略則という意味であると解されている。同書には「渋沢の実業思想の真髄が込められて」おり、「明治時代で最初の経済自由主義を説いた書」といわれている。
『立会略則』では通商会社および為替会社の説明がなされている。通商会社というのは今日の商事会社であり、為替会社は銀行に相当する、まず、商の本質について、つぎのように述べられている。(略)
“商社は会同一和する者の、利益を謀り生計を営むものなれとも、又能く物貨の流通を助く、故に 社を結ふ人、全国の公益に心を用ゐん事を要とす”。このように利益の追求と公益の尊重を同時に達成する見方は、渋沢の生涯を通じて実践された。そのような考えはのちに「論語と算盤」論や道徳経済合一説として提唱されることになる。」
また、渋沢栄一の伝記である『青淵先生伝』には次のような件がある。
「立会略則には“商とは物を商量し、事を商議するの義にして、人々相交り相往来するより生ずるものなり、(略)唯一人一個生計を営むが為めの名にあらず、能く此主意を心得大に商売の道を弘むれば小にして一村一郡、大にして世界万国の有無を通じ、生産もまた繁昌し、遂に国家の富を助くるに至らん、是商の主本要義にして、凡そ商業を為すもの、心を此に留めざる可からず”といふより説き起して、“物相交り相通ずるより商法の道を生ずれば、能く此道をおしひろめて全国の富を謀るべき事なり、夫れ故商業を為すには偏頗の取計ひなく、自身一個の私論を固執せず、心を合せ力を一にし、相互に融通すべし、云々」
このとき政府側にいた渋沢は、国が事業を認可するにあたって、しかるべきガイドラインが必要だと考えていた。
そこで会社設立マニュアルのようなものを作った。その中に、企業の目的は単なる自社の儲けだけではなく、公益や国富に資するものであるべきという思想を埋め込んだというわけだ。
岩崎弥太郎の台頭
岩崎弥太郎は、今の言葉で言えば1870年に創業したアニマルスピリッツ溢れるベンチャー企業家だった。ここでは岩崎の創業の背景を海運業にフォーカスして紐解いてみる。川崎勝の論文には次のようにある。
「岩崎弥太郎は、1872年(明治5)一月、九十九商会を三川商会に改称、藩の樟脳・生糸事業の払下げを受け、11月に瀬戸内海小航路を開設し、1873年3月には、三川商会を三菱商会と改称、12月、岡山県吉岡鉱山を譲り受け、1874年4月、本拠を東京南茅場町に移し、三菱蒸気船会社とし(翌年三菱汽船会社と改称)、海運業を本格化させ、日本国郵便蒸気船会社に対する挑戦を企てた。
しかし、この段階では、“其業未だ盛ならずして既に内外の負債に迫まられ、甚だ困難の事情ありと云へり”(田口卯吉「三菱会社助成金を論ず」)という状態であった。」
しかし、この後台湾出兵で状況が反転する。1874年7月、日本政府は、台湾への兵員輸送船舶手配の算段が立たなくなってしまっていたのだ。
兵員輸送のための船舶提供を英米に求めたが 局外中立を宣言されて拒否されてしまったようだ。そこで政府は、日本国郵便蒸気船会社に輸送を要求する。ところが、これも出兵動員の期間に三菱会社に航路を浸食されることを恐れて拒否されたようだ。
このため、大久保はそれを三菱に要請する。そこで岩崎は即座に受諾してみせる。”7月28日に政府は岩崎に輸入船一三艘を貸し与えて、台湾出兵の軍事輸送を行なわせた”と記載されている。
12月に台湾からの撤兵が完了すると、大久保は、岩崎の行動を大変評価した。そして、貸与船はそのまま三菱のものとなったようだ。さらに、大久保は翌1875年(明治8)に日本での最初の外国航路の営業開始の命令を出している。この航路は、横浜から上海をつなぐ航路だった。意図としては、米国太平洋郵便蒸気船会社に対抗させることだったようだ。同時に、国内でも三菱が日本国郵便蒸気船会社との間で激烈な運賃値引合戦を展開することを容認した瞬間だった。
つまり、岩崎は内務卿大久保利通の海運保護政策に寄り添う形で、事業を拡大していったのである。
それは言うまでもなく、海外派兵に当たって船舶提供を拒否した外国船(米国太平洋郵便蒸気船会社)と、国内船(日本国郵便蒸気船会社)を駆逐させることにあった。政府の意向に従い、いつでも船舶を動員できる航海権掌握の必要性からだったと思われる。
要するに、大久保の海運保護育成とは、三菱保護政策に他ならなかったのだ。
そのうえで敵対しあう三菱と郵便蒸気船を合流させ、全権社長として岩崎弥太郎に事業に当たらせることを考えていたようだ。巨大利権を獲得した岩崎弥太郎は、大久保利通のバックアップのもと、潤沢な助成金を得て次々と事業を興していく。
1879年7月には東京海上保険会社設立を援助している。さらに1880年4月三菱為換会社(金融・倉庫事業)を設立。千川水道会社創設。1881年3月になると、今度は福澤諭吉の斡旋によって後藤象二郎から高島炭坑を買収している。その7月には明治生命保険会社の設立を援助している。そして、この年日本鉄道会社設立にも参加するなど、瞬く間に、次々と事業を拡大していった。
岩崎弥太郎の企業設計思想
岩崎が興した郵便汽船三菱会社の社規第一条を見ると、岩崎の事業に関する考え方が如実に表れている。長沢康昭によると『三菱汽船会社規則』では、冒頭に「立社体裁」を定め、組織の枠組を大きく定めた、とある。
“第一条当会社ハ姑ク会社ノ名ヲ命シ会社ノ体ヲ成スト雖モ其実全ク一家ノ事業ニシテ他 ノ資金ヲ募集シ結社スル者ト大ニ異ナリ故ニ会社ニ関スル一切ノ事及ヒ褒貶黜陟等都テ社長ノ特裁ヲ仰クヘシ
当社はしばらく会社の名を命じ、会社の体をなすといえども、その実全く一家の事業にして、他の資金を募集し結社するものと大いに異なる。故に会社に関するる一切のこと、全て社長の特裁を仰ぐべし”
第一条においては、後々まで三菱の伝統となった「社長独裁主義」を規定している。 これは岩崎弥太郎の強力なリーダーシップが反映されたものと言ってよい。
つまり、岩崎弥太郎を貫いているのは、会社という形態ではあるが、実態は岩崎家の事業であること、会社に関するすべてのことは社長(=岩崎弥太郎)が最終的に判断するという経営も資本も独占するというスタイルに他ならなかった。
渋沢栄一と岩崎弥太郎、向島の対決
このように渋沢・岩崎には、まことに水と油のような相いれない境界があった。果たして、二人が力をつけるにつれ、衝突は避けられないものとなっていく。二人の対立関係を象徴する出来事が起きるので紹介しよう。
それは明治11年(1878年)のことだった。向島のとある料亭で岩崎が酒席を設けて渋沢を接待することになった。二人が対話する機会が設けられたのだ。その酒席で自信満々の岩崎は、自身と連携すれば日本の産業界でできないことはないと渋沢に語りかけたようだ。渋沢・岩崎が共同で事業を展開していく。それが日本をさらに発展させるものなるという提案だった。
この提案について、栄一の5代目孫にあたる渋沢健は以下のように後述している。
「岩崎弥太郎は渋沢栄一の持論である、合本制によって、国を富ませ、民を富ますとうことはもっともであるが、事業はあくまで一人の才能ある人間が経営も資本も独占して行うべきであると訴えた。栄一は、経営者に能力がある人財を置くことはもちろんそのとおりと頷いた。
ただ、資本と経営は分離することが原則であり合本制はその資本を集めるために利益を多くの出資者に還元するものだと反論する」
結局、熱い議論に展開し収拾がつかなくなってきたようで、渋沢はお手洗いに失礼すると言い、そのまま帰ってしまったようだ。
自社の利益を最優先する岩崎弥太郎は、大久保利通の支援もあり巨額の補助金を得て、海運事業を発展させる。しかし、一方では沿海運搬の独占に伴う不当な高額運賃、新規船舶の購入を渋っての物産の停滞、船の修繕をせずに蓄財に励んだばかりか、補助金を別の事業に転用したりして、周囲からの批判が高まっていく。
渋沢健曰く、「そこで競争原理を促そうと、渋沢栄一は三井物産社長の益田孝とともに、東京風帆船会社を設立し、地方の富豪も株主として迎えた。つまり、岩崎弥太郎の支配的資本主義と、渋沢栄一の合本的資本主義が対立することになるのである」。
この経緯については、伊藤米治郎が竜門雑誌で詳細を述べている。
「渋沢子爵が我が国の海運事業に初めて関係されたのは、遠く半世紀前、即ち明治十三年であつた。当時我国の海運事業は三菱汽船会社に独占された形で、一人の起つて之れに対抗する者もなかつた。
同会社は台湾征討の時にも、西南役の時にも軍隊及軍需品の輸送を一手に引受け、更らに又た、太平洋郵船会社及彼阿会社等の外国会社を圧倒して、我が近海航路の覇者となり、其の結果運賃率を意の儘に左右するの有様で、商人の不便不利を訴ふる者漸く多きを致すことゝなつた。
渋沢子は乃ち三菱会社の海運独占と其の輸送賃率が我が国の商業発達に累を及ぼすべき事に留意し、是れが牽制と緩和等を達成せんが為めに、先づ一帆船会社の設立を企画せられた。
乃ち三井系の益田孝氏を説き、同氏をして新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六及伏木の藤井純三等《(藤井能三)》の諸氏を説かしめ三十万円の資本金を以て東京風帆船会社を興し、休職海軍大佐遠武秀行氏を社長として明治十三年に其の創立手続を了した。
此の事は実に風帆船の遅緩な航行力を以つてして猶ほ且つ荷客を集め得るの見込みありし事を語るものであり、当時の汽船運賃が如何に割高であつたかを物語るものである。従つて子爵の此の挙は純然たる経済的見地から三菱の最初の競争者として起たれたものと見るべきであらう」。
このため、岩崎の郵便汽船三菱会社と、渋沢以下三菱の覇権に反対する井上馨、益田孝、浅野総一郎といった面々が参画した共同運輸会社(東京風帆船会社を合併)による直接対決が勃発した。
結局、両社は値下げ競争をくり返していく。さらには輸送速度を競い合う。そして、ついには2社の船舶が接触事故を起こすに至る。まさに、熾烈な戦いを繰り広げたようだ。
相互に消耗戦が続き状況がひっ迫していくなか、岩崎弥太郎自身が病に倒れ51歳で死去するに至る。
大久保亡き後、反三菱となっていた政府はこの機を逃すことなく仲介に入り、結局両社を合併させて、コントロールしやすい日本郵船株式会社が設立される運びとなったのだ。
渋沢栄一と財閥との付き合い
向島の対決は物語として面白い。しかし、実際には渋沢栄一の対応は、是々非々の柔軟性をもっていた。当時は三井、三菱、住友、安田の「四大財閥」のほか、古河、浅野、川崎、藤田といった財閥が実業界を牽引する時代だ。渋沢も事業ごとに連携先のバランスを取りながら事を進めていたことは間違いない。
最たる例が、同じ三菱岩崎家であっても、弥太郎とは対決したが、久弥、弥之助とは良好な関係を保ったことだろう。日本銀行設立では協力しあっている。
また、三井グループの番頭 三野村利左エ門とは、第一銀行設立の経緯もあり、後日対立を深めることになった。やはり番頭の中上川彦次郎とは、渋沢の投資先が買収されるといったこともあって対立が深まった。一方で、三井物産社長の益田孝とは良好な関係を築いていたようだ。
渋沢はなぜこのような現実的な対応ができたのか。理由として国家を富ませるために、公益とは何かを考えつつ、大局的な視座に立って動いていたことがあげられる。また、合本制度のフル活用により高度なバランス感覚を持ちえた結果とも言えるだろう。
さらに、歴史を下っていくと、1946年からGHQによる戦後の財閥解体が始まり、4大財閥はもちろんのこと、第5次にもわたる財閥指定によって、地方の財閥にいたるまで解体させられていった。しかし、渋沢がつくった企業集団は、財閥とみなされなかった。解体を免れているのだ。経営と資本の独占ではなく、合本主事の考えに基づいていたこと。一企業当たりのシェアが低かったからに他ならない。
引用:P.Fドラッカー 断絶の時代 ダイヤモンド社
渡辺和夫 第一国立銀行の財務諸表と渋沢栄一Financial Statements of Daiichi National Bank and Eiichi Shibusawa
渋沢栄一記念財団 青淵先生伝初稿 第七章一・第六二―七三頁(DK030081k-0001)
長沢康昭 初期三菱の経営組織-海運業を中心にして
渋沢健 透写像 向島の対決 インベストライフ2006年7月号
川崎勝 田口卯吉の三菱批判―明治前期の海運保護政策をめぐって―
伊藤米治郎 竜門雑誌 第481号〔昭和3年10月〕渋沢子爵と郵船会社~日本郵船会社創立以前の関係