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アグネス・チャンさん | 世界の現状に立ち向かい変える覚悟

サステナブルな取り組み SDGsの取り組み
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20年以上にわたって日本ユニセフ協会の大使として、世界各国の助けを必要とする子供たちを支援し、守るための活動をしてきたアグネス・チャンさん。

今回のインタビューは第1弾と第2弾に分かれています。第1弾ではアグネスさんの原点や、活動への思い、第2弾では実際にSDGsなどに取り組むことについてお話しいただきました。

本記事は第1弾として、アグネスさんが「子供」をテーマに社会的な活動をするに至った原点や、その活動における思い、日本ユニセフ協会での活動などについてご紹介します。

12歳から心に生きる「子供」への想い

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アグネス・チャンさん(撮影:加藤俊)
――

社会課題を意識し始めたのはいつ頃ですか?

アグネス

中学生の頃です。カソリックだったので当時はミッションスクールに通っていて、中学生になるとボランティア活動が認められました。

それで、Legion of Mary(レジオ・マリエ)というカソリックのボランティア団体に何となく入って、何となく活動を始めたんです。

その団体ではいろいろな学校の学生が集まってシスターたちに課題を与えてもらい(アサインメント)、毎週活動をしていました。

最初は新聞を配ったり子供の面倒を見たりしていたのですが、初めて外で行う活動として香港のサンディベイというところへ行きました。

そこへ着くと、看護婦さんに呼ばれてたくさんの子供たちが出てきたのですが、その中に足や手のない子、寝たきりの子などがいました。

言葉を失い、こういう子供達がいることさえ知らずに、狭い故郷の中で生きてきたのだと感じました。

その後の活動でも癌の末期患者や難民、親がいない子、目の見えない子に会い、ボランティア活動をしていくうちに、シャイだったはずがだんだん勇気が出てきて、歌って食べ物を集めるなど、自然といろいろな活動をするようになりました。

自分にできることがあれば、という感覚がそのときからあったと思います。

自分も子供だったけど、もっと幼い子や同じ年代の子がすごく苦労しているということがすごく印象強くて、あの時から「子供」が自分の中での一番のテーマになっていたとも思います。

子供を理解したい、子供の心の中に入りたい、子供の心の中の一言を聞きたいという願いがすごく強くなっていきました。

――

歌手としてデビューされてすぐの頃は、どのようにボランティア活動をされていたのですか?

アグネス

デビューしてからすぐはなかなかできませんでした。その頃はまだ慈善活動の多くが、「偽善」とか「自分を良く見せたいなら全財産を投げ捨ててアフリカに行けばいいじゃないか」と言われるようなときでした。

案外皆さん寄付はしていたのだと思いますが、表に出て「私は寄付をしています」という人は少なかったでしょう。

また、「私はボランティアをやっています」と言うのはタレントにとって致命的だとも当時は言われていました。

しかもアイドルですから、誰かが私を嫌いになるようなことや、論争になるようなことをやってはいけない、と会社に反対されていました。

それでも難民の支援などはたまに出来ていたのですが、仕事をやりたいのかボランティアをやりたいのかという大きな葛藤がありました。

その後、理解してくれるマネージャーに会い「一生懸命仕事をして稼ぎが増えたら会社も許してくれるだろう」という方針になりました。

どのくらいの時間でどれくらい利益を上げられるかが私たちのビジネスですから、時間を使ってボランティアをするのは会社にとっては損なんですよね。

ボランティア活動を許してもらうためには、限られた時間の中でたくさん稼いで元が取れたと会社に思わせ、ボランティアは余った時間にする。

それで、まず稼ぎ手になるために歌以外の仕事をするようになりました。

幸いなことに、頑張るほど天然ボケのキャラクターがウケて、第二の黄金期のようなものが訪れ、そのうちに会社も許してくれるようになりました。

悲惨な実態と誹謗中傷に対峙するユニセフでの活動

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――

日本ユニセフ協会(以下、協会)にはどのようなプロセスで入ることになったのでしょうか。

アグネス

協会の大使に任命されたのは1998年で、私はその当時一生懸命ボランティア活動をしていた数少ないタレントの1人だったと思います。

それでユニセフ側から声をかけられました。「私たちは一番弱い子供たちの声になりたい。一緒に活動してくれませんか?」 そう言われてすごく感動しました。

私はそれまでに5回ほど24時間テレビの司会を務めていたのですが、24時間テレビが国外の支援をやめて国内の支援に集中するとなったタイミングでした。

たしかに日本の子供に関する問題もたくさんあるのですが、海外の子供たちもすごく大変で、彼らの現状を誰も知らず、取材にも行かないから現状が見えないというのが事実としてあって、ユニセフの言葉に共感したので一緒に活動することにしました。

大使になってからは本当に日々勉強で、自分がいかに知らなかったのかを思い知らされました。

――

大使として最初にどういった活動をされましたか?

アグネス

大使として最初に行ったのはタイでした。

協会は児童買春・児童ポルノ禁止法の成立を推し進めていたころで、当時は日本も含め海外から買春しにタイへ行くことが多くあり、その中で子供を買うことが横行していました。

その頃、社会にはまだ「買春」という言葉がありませんでした。「売春」は売る側に責任があり、「買春」だと買う側に責任があります。

大人の場合は自分で結論を出しているので、売春という言葉を使っても間違いではないと思いますが、子供は強いられたり売られたりしていて責任はなく、売春という言葉を使うのは間違っています。

タイでは、家庭が苦しい子供や、少数民族で山岳地帯で生活していた子供が連れていかれて、売られてしまっていました。

ホテルで待っていたらすごく幼い子が真っ白に化粧をして、お客さんと一緒に入ってくるという光景を目の当たりにしました。

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「ひどい現実を目の当たりにして、涙が止まりませんでした」と語るアグネスさん
アグネス

また、エイズが流行っていた時期で、買春宿に入った40%~50%の子供が罹患してしまっていました。そして発病するまでは働き続け、発病または妊娠したらトラックに載せて遠い山に捨てられてしまうんです。

実際に山奥に連れていってもらうと、ユニセフが支援している民間援助団体が子供を拾って育てていました。本当に信じたくない光景で、最初のミッションは辛いものでした。

正直なところ、そういう実態を何も知らなかったです。タイから戻ると、児童買春・児童ポルノ禁止法の成立を私も一生懸命訴えました。1999 年に成立したのですが、法律に穴があったのです。

制作と販売は違法だけれど、所持と購入は違法ではなかったため、まだ買う人がいました。

また、販売は違法だからとその分インセンティブを増やしてお金を取ろうとする人が出てきて、高く売れるようにもなってしまいました。

この穴を埋めるためにまた十数年活動しましたが、ものすごくバッシングされました。スウェーデンやアメリカはアニメ等の創作物も違法ですが、日本は規制がありません。

そういったものも規制する動きがあったのですが、それが好きな人たちや雑誌業界、アニメ業界などから激しく反対され、もうずたずたでした。

大使ってこんな大変な仕事なのか、と正直思いました。活動の中でNGOなどの仲間が攻撃や誹謗中傷、脅迫などに耐えられず1人、2人と減っていきました。

私が辞めないことに対して、「大変なのになんでやめないんですか?」「仕事にも支障が出てるんじゃないですか」「ネットでどんなことが起きているか分かってますか?」といろいろな人に聞かれました。

私はこれまでタイやカンボジア、フィリピン、モルドバ共和国で売られた子供たちと会ってきて、私が受けていた被害や苦労はその子供たちが受けたものに比べて、言葉を選ばずに言えば屁みたいな物だと思っていますし、そう言いました。

そうしてやめずに活動を続けるうちに、何人かの仲間が戻ってきてくれました。本当に嬉しくて涙を流しました。

NGOの方は物を投げられたりとかいろいろなことをされて、命の危険を感じたりと、本当に皆大変でしたから。

仲間が戻ってきて、政権が変わって、十何年かかかってやっと法改正ができ、所持も規制されるようになりました。

――

誹謗中傷だけでなく、物理的な攻撃まであったのですね。

アグネス

「日本ユニセフ協会をつぶそう」「アグネスをつぶそう」というのが誹謗中傷をしてくる人たちの合言葉です。

こうしたことの要因の1つはやはり児童買春・児童ポルノ法の成立がすごく大きいですが、それともう1つ、私が日本人じゃないからです。

おそらく日本の中で最も有名な中国人タレントの一人ですから、ネット右翼にとって私はすごく大きなターゲットとなります。

私が中国のことを非難することもないので、親中なのではないかと攻撃を受けます。

でも、もう終わることはないと思います。人気や影響力がなくなったり、やめたら減るかもしれませんが、一生つきまとうものですね。

確かに私は外国人ですし、利害関係や差別が絡んでくると問題が複雑化するんです。

――

日本ユニセフ協会も、「募金をユニセフ協会の本部にするのと日本ユニセフ協会にするのは違う」「中抜きされている」みたいに謂れのないことを言われているのを目にすることもありますね。

アグネス

まだ日本ユニセフ協会の体制が整っていなかった頃は、本部へ直接募金が行くことがあったかと思いますが、今は必ず日本ユニセフ協会を通して本部へ拠出されています。

そしてその使途は全てホームページで公開されています。

また、お金がたくさん集まっているというのもありますが、十数か国あるほかのユニセフの協会と比べて私たちは経費がすごく少ないです。

ユニセフ本部との協定で本来は25%まで経費を運営に使って良いとされていますが、日本は十数パーセントと、できるだけ抑えられるように尽力しています。

引用:2022年日本ユニセフ協会 収支(公益目的事業会計)解説 支出の部 https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_report.html
――

誹謗中傷を受けたり、あることないことを言われたりしてきた中で、支えとなったものは何だったのでしょうか?

アグネス

やっぱり子供たちの笑顔ですね。子供に未来があってほしいという思い。

これから同じ目に遭う子供が1人でも減るようにとか、1日でも長く生きてもらうためにはとか、笑ってもらうためにはとか、そういったことを目標にするとやることにきりがないです。

私たちが救えなかった子がいっぱいいて、そういう子供達の人生が無駄にならないように、気づいた私たちは頑張るしかないと思っています。

自分もこんなに小さな存在です。でも、みんなと一緒に強くなるのが責任です。

取材の所感

安藤憧果

ライター

第1弾では、アグネスさんが「子供」をテーマに社会的な活動をするに至った原点や、その活動における思い、日本ユニセフ協会での活動などについてお話ししていただきました。

今回の取材では、何よりも子供に対するアグネスさんの愛情と守りたいという思い、そして強い責任感を感じました。

「社会貢献活動」と一言で表現するにはあまりにも過酷で、ただ優しいだけ、ただ善人なだけではここまで続けてこられないほどだと思います。

アグネスさんは子供を助け、そして子供がアグネスさんを支えている。社会や誰かのためになることをする、ということの理想的な姿のように見えました。

第1弾では、実際にSDGsなどに取り組むことについてお話しいただいています。求められるアクションや心持ちを、アグネスさんの経験を踏まえて教えていただきました。第二弾も是非ご覧ください。

◎プロフィール
アグネス・チャン
ユニセフ・アジア親善大使/歌手/エッセイスト/教育学博士。香港生まれ。1972年に「ひなげしの花」で日本で歌手デビュー。1998年に日本ユニセフ協会大使に就任し、以来、タイ、スーダン、東西ティモール、フィリピン、カンボジア、イラク、モルドバ共和国と視察を続け、その現状を広くマスコミにアピールする。2016年にユニセフ本部より「ユニセフ・アジア親善大使」に任命され、就任。現在は芸能活動だけでなく、エッセイスト、大学教授、ユニセフ・アジア親善大使、日本対がん協会「ほほえみ大使」など、知性派タレント、文化人として世界を舞台に幅広く活躍している。

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ライター:

フリーライター。昔から感想文や小論文を書くのが好きで、今なお「書くこと」はどれだけしても苦にならない。人と話すのが好きなことから、取材記事の執筆が主軸となっている。新潟県で田んぼに囲まれて育った原体験から、田舎や地方への興味があり、目標は「全国各地で書く仕事をする」こと。

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