日本酒に特化した卸売会社として、「地酒市場」という新たなマーケットを創造した株式会社岡永。蔵元と酒販店、消費者をつなぐ提案型の流通事業展開にシフトし、今日の地酒ブームのきっかけをつくった。飯田永介社長が掲げる「価値を『カタチ』にして広める」という使命は、国境をも越えた共感のネットワークの拡大に結び付いている。(撮影:唐牛航)
日本酒専門卸の原点
東京・日本橋で醤油、味噌、酒の小売業「岡本屋」として創業したのは 1884(明治17)年。2代目の飯田紋治郎氏が卸売業に転換した。戦後間もない1949年に株式会社岡永商店を設立し、1965年には新社屋(現岡永ビル)が完成。食品部門の売り上げが伸びて社員も支店も増え続けた中、事業は順調に拡大し続けるように見えた。
ところが、売れれば売れるほど顕著になったのは、予想外の収益悪化だった。大手食品メーカーの価格競争のしわ寄せを受けたためで、1972年頃には八方塞がりの危機に陥る。飯田社長が「創業からの歴史を振り返っても、類を見ないほど深刻だった」と言い切るほどの窮地。先代の飯田博氏(前会長)は会社の存亡を懸け、不退転の決断を下す。
当時の岡永はいくつもの大手食品メーカーと特約を結び、大量の商品を量販店、スーパーに卸すビジネスモデルが軸だった。しかし、特約に依拠した取引は大手の後ろ盾を得られた半面、卸会社としての主体性を手放すことにもなった。「気が付けば、単なる配送会社になっていた」(飯田社長)という状況から脱却するため、博氏は特約を軒並み返上したのだ。
それはもう一度、卸会社としての原点に立ち返り、流通の主体性を取り戻すための荒療治だった。量販店やスーパーからの撤退も決めた博氏が目を向けたのは、創業の原点でもある日本酒。専門の卸会社が少なく、イニシアチブを取れるのは日本酒だったということだが、当時の日本酒市場は、まさに風前の灯火のような状況にあったことをご存知だろうか?
日本酒が下火となっていた時代
米不足が深刻化していた戦後に普及した日本酒は、酒造米を使わない三倍増醸清酒(三増酒)が爆発的に普及。さらに、アルコール度数に基づいていた級別・課税のシステムは、品質の良し悪しを重視したものではなかった。戦中・戦後を通して「質より量」を重視してきた日本酒が高度経済成長期に支持を失っていったのは、自明の理だったのかもしれない。
「十年まえは熱燗で一杯やったものですが 一日のピリオド。黒丸」。こんなコピーが……したためられた1970年の新聞広告では、寿司店の主人が店を閉めた後、割烹着のままカウンターで一息つく写真が世間の話題をさらった。主人が傾けるグラスに注がれていたのは日本酒ではなく、カウンターに置かれた真っ黒なボトルの国産ウイスキーだった。
当時、東京・日本橋に本社があった大手ウイスキーメーカーが大々的に仕掛けた「二本箸作戦」。箸が置かれている寿司や天ぷらなどの和食店、さらには日本酒かビールが晩酌の中心だった家庭にもウイスキーを浸透させようというもので、人々が豊かになったこの時代を象徴する企業キャンペーンとして今も語り継がれている。
この作戦の効果はてきめんで、寿司店などには国産ウイスキーのボトルがずらりとキープされる光景が定着。モノがあふれるようになって五感が洗練され、高級志向を強めた消費者のライフスタイルが洋風化する中、旧態依然のままだった日本酒はアルコール市場から駆逐されかねない危機的な状況に追い込まれていた。
卸会社として食品から日本酒への転換を図った博氏は1975年、再び大きな決断を下す。「日本酒の復興」「流通主導の日本酒専門店業態の確立」「消費者に対する日本酒の啓もう」を掲げ、地方の蔵元と酒販店を巻き込み「日本名門酒会」を設立。「民族の酒・日本酒の伝統を守り、良質でおいしい酒を愛飲家にお届けしたい」と会の本部を岡永に置き、自ら本部長を務めて活動に乗り出した。
試飲販売イベントを積み重ねての日本酒ブーム
博氏は、時代を支配していた「大量生産」「大量消費」「大量宣伝」と逆行する手法で、日本全国の隠れた名酒を発掘して流通させようと考えた。しかし、当時の日本酒市場は個性に乏しい大手銘柄の寡占状態。そもそも地方の酒は大都市市場に流通しておらず、「純米酒」「吟醸酒」の存在も全く認知されていなかった。
飯田社長も「地方の蔵元と初めて取引をしたのは1955年頃だったと聞いているが、1970年代に入っても地酒は見向きもされなかった」と回顧する。こうした中、発足したばかりの会が取り掛かったのは、市中の酒販店を強力な専門店に変えていく試みだった。
「『酒屋の酒知らず』ではないが、その頃は日本酒の知識をほとんど持っていない酒販店が多かった。知識が必要という意識すら希薄だったように思う」と飯田社長。どんなに良質な地酒を発掘したとしても、その良さを消費者に伝えられなければ売れない。
会が最初に取り組んだのは、50店ほどからスタートした酒販店での試飲販売イベントだった。チラシを配って地域の愛飲家を酒販店に集め、地酒を味わってもらう地道な取り組みで、最初にそろえたのは12銘柄。50店舗の規模から始めたイベントは口コミで評判を呼び、酒販店にも消費者にも「日本酒はこんなに多くの種類、味わいがある」ということを知らしめることに成功した。
会はさらに、市販酒の品質維持・向上の取り組みや蔵元見学会、試飲会や頒布会などを通した酒造りへの理解促進、日本酒の普及宣伝にも乗り出す。さまざまな活動が実り、全国的な「純米酒ブーム」「吟醸酒ブーム」が巻き起こったのは、1980年代のことだった。
1995年以降は日本酒の消費量が目に見えて落ち込んだが、本部長を引き継いだ飯田社長は季節酒を案内する「一年52週の生活提案」を打ち出す。1998年に始めた企画「立春朝搾り」は2月4日に搾った日本酒を、その日のうちに消費者に届ける画期的な取り組みで、2023年は全国43蔵が参加。会を象徴する活動として定着した。
全国の蔵元が高品質の地酒を醸造するようになった昨今、日本酒は海外でも「SAKE」と親しまれている。会には現在、全国で200を超える日本酒や本格焼酎の蔵元、国産ワインメーカーや地場の食品メーカー、約1500の酒販店が加盟。約30カ国への輸出も果たし日本食の普及にも力を入れている。
飯田社長は「卸会社としてできるのは、日本酒の価値を広めていくということのみ」と強調。「価値は企画、商品、イベントといった『カタチ』にしなければ広がらない。それぞれの文化を持つ地域の中で蔵元と酒販店、お客様をつなげるのも『カタチ』をつくるということ」と語る。
誠実さを尊ぶ
岡永は2024年、創業140年目を迎える。3つの世紀をまたぐ長寿企業になり得たのは、卸会社としての原点を忘れることなく流通の主体性を守り続けているからだろう。飯田社長も「今売れるものだけに目を向けるのではなく、将来の卸業界、流通、日本酒をどうしたいかというイメージを持つことが大切」と語る。
飯田社長は「至誠天に通ず」というフィロソフィーも大切にしている。「多くの飲食店が休廃業を余儀なくされたコロナ禍では我々も大打撃を受けたが、大変だったのはみんな同じ。あらゆるステークホルダーとつながっていることを実感した中、誠実さとは何かを改めて考え直す機会になった」という。
こうした姿勢は蔵元、酒販店、そして消費者とのつながりを大切にしてきた会の精神そのものだ。その「誠実さ」は岡永が次の100年も「良い会社」であり続けるための拠り所として、しっかりと受け継がれるに違いない。
実は同社の姉妹会社には酒蔵天狗チェーンの「テンアライド」、ディスカウントスーパーの「オーケー」、警備保障の「セコム」があり、経済界では「飯田兄弟」として有名。取材後の晩酌講義のくだりに飯田家の教えが岡永だけでなく、天狗やオーケー、セコムにも種として受け継がれていることをお聞きした。
<企業情報>
代表者 飯田永介
資本金 4500万円
従業員数 65名(2022年3月期)
売上高 73億円(2022年3月期)
創業 1884(明治17)年
事業内容 酒類および食品卸売、日本名門酒会組織運営、不動産賃貸など
所在地 東京都中央区