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オジー・オズボーン死去 ブラック・サバス時代の伝説、メタルスターとしての逸話

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“最狂の男”が旅立つ ロック界の象徴、76歳で死去

オジ―オズボーン逝去

朝から涙が止まらない。オジー・オズボーンの訃報に接して、ブラック・サバスを1stから聴きながら、この記事を書いている。

「信じられないほどの冒険だった」。生前そう語っていたオジー・オズボーンが、2025年7月22日、家族に見守られながら76年の生涯を終えた。米PEOPLE誌の報道によれば、家族は「愛に包まれて旅立った」と語っている。

Xでは、家族が以下の投稿をしている。

 

シャロン、ジャック、ケリー、エイミー、ルイ
言葉では言い表せないほどの深い悲しみの中、私たちの愛するオジー・オズボーンが今朝逝去したことをお知らせいたします。彼はご家族と共に、愛に囲まれて過ごしていました。皆様には、この度のご多幸をお祈り申し上げます。ご家族のプライバシーへのご配慮をお願い申し上げます。

ブラック・サバスのフロントマンとして世界的名声を得た彼は、その後もソロ活動でメタル界を牽引し、数多くの名曲とスキャンダラスな伝説を残してきた。

メタルレジェンド達も哀悼の意をささげる

 

7月23日、メタルレジェンド達も皆オジーへの哀悼の意を捧げている。

デイヴ・ムステイン大佐(メガデス)

親愛なるオジーへ
寂しくなるでしょう。でも、あなたの素晴らしいソウルメイト、オズボーン夫人ほど寂しくはありません。私たちみんなのためにしてくれたことすべてに感謝します。
あの世で会いましょう!
メタリカ
オジー、安らかに眠れ
オジー・オズボーンがメタリカにとってどれほどの存在であったかを言葉で表現することは不可能です。ヒーロー、アイコン、パイオニア、インスピレーション、メンター、そして何よりも友人。思い浮かぶのはほんの一部です。オジーとシャロンは私たちを信じ、人生とキャリアを変えてくれました。彼は私たちにビッグリーグでプレーする方法を教えてくれただけでなく、温かく、歓迎的で、魅力的で、あらゆる面で素晴らしい人でした。

私たちはこの喪失に深く悲しみ、打ちひしがれています。シャロンとご家族、バンド仲間、そして彼の多くの友人たちに、心からの愛と哀悼の意を表します。彼は素晴らしい遺産を残し、私たちは深く惜しまれるでしょう。

パンテラ
ご冥福をお祈りします @ozzyosbourne メタルとパンテラのために尽力してくださった全てのことに感謝します。あなた方がいなければ、私たちはここにいません。シャロン、ジャック、ケリー、エイミー、そしてルイ、心からお悔やみ申し上げます

 

ブラック・サバスから“メタルの帝王”へ

イギリス・バーミンガムに生まれたオジーは、1968年に結成されたヘヴィメタルバンド、ブラック・サバスのボーカルとして頭角を現した。1stの「Black Sabbath」や「N.I.B」、2ndの「Paranoid」「Iron Man」「War Pigs」といった曲はジャンルの象徴となり、後世に多大な影響を与えた。1978年のバンド脱退後はソロアーティストとして再スタートを切り、「クレイジー・トレイン」「ノー・モア・ティアーズ」などのヒット曲で再び音楽シーンを席巻する。

個人的には父がブラック・サバスが大好きで幼い頃からよく聴かされていたためか、思春期にはすっかりメタルキッズになったが、当初はインフレイムスやソイルワークなどのメロデスが好きだったこともあり、ロニー・ジェイムス・ディオやトニー・マーティン時代の様式美的なメタルのアルバムの方が好きだった。いまにして思えば、それは初期ブラック・サバスを愛していた父への反抗だったのかとも思うが、20代を超えたあたりで、サイケロックやドゥームの魅力がわかるようになりオジーに嵌っていった。

 

当たり前な話だが、ブラック・サバスはいまではサイロ化されたメタルの細かいジャンル、すべての始祖と言ってよく、長いキャリアを通してアルバムごとに見せる顔が全く違う。それ故にいつどの瞬間に聴いても、その時の心境、その時の曲を求める渇望にバッチリ応えてくれるアルバムがあるのが凄みだと思う。こんなに幅の広いメタルバンドはいない。

いま、「Children of the Grave」を聴いているが、やっぱり最高だ。

その一方で、彼は“狂気のロックスター”という別の顔でも注目を集め続けていた。

 

コウモリ咀嚼事件 狂気と誤解の代償

世界中で語り継がれる事件が起きたのは1982年1月20日、アイオワ州デモインでのライブ中のことだった。オジーは演出として生肉を観客に投げるという過激なパフォーマンスを行っていたが、その日、ステージに投げ込まれたのは一匹の生きたコウモリだった。光に驚いたのか動かず、オジーはそれを玩具だと思いこみ、演出の一環として口にくわえた。

だが直後、突如としてコウモリが暴れ出す。驚いた彼は思わず頭を噛みちぎってしまい、観客は大歓声に包まれたが、事態は笑いごとでは済まなかった。狂犬病感染の恐れから、オジーは病院へ緊急搬送され、以降のツアーを数十本の注射を打ちながら強行することとなった。

 

鳩の首、アラモ砦、そして七三分け 数々の問題行動

このコウモリ事件を皮切りに、彼の名は“破天荒”の代名詞として記憶されるようになる。記者会見中、シャロンから渡された鳩を思わず噛みちぎってしまったエピソードは、青少年の模範としてあるまじき行為と批判され、全米の保守団体から目をつけられるきっかけとなった。

また、ツアー中に泥酔してテキサスのアラモ砦で立ち小便をし、10年間同州でのライブ活動を禁止されたこともある。ホテルの部屋をサメの死体で血まみれにしたり、ゆるキャラ「ふなっしー」をプールに突き落としたりと、逸話は尽きない。

新人ギタリストだったランディ・ローズを、ほぼ演奏を聴くことなく“フィーリング”で採用したのもあったな。今頃、あの世でランディ・ローズと再会しているだろう。いつの日か、自分もそのセッションを聴きたいものである。

あとは、ファンがCDコレクションを盗まれた事件では自ら大量のグッズをプレゼントするなど、義侠心に富んだ一面もあったな。

 

愛された“お騒がせ男” リアリティ番組で見せた優しさ

ただ、オジーは単なる問題児ではなかった。2002年に放送されたMTVのリアリティ番組『ザ・オズボーンズ』では、家族と過ごす日常が大きな反響を呼び、“お茶の間のロックスター”として再ブレイクを果たす。妻シャロンとの関係や、子どもたちと笑い合う姿が親しみを呼び、かつての“狂気”とのギャップに多くのファンが魅了された。

この番組で見せた父としての姿は、音楽だけでは語り尽くせない彼のもう一つの顔を浮かび上がらせた。

 

パーキンソン病との闘いとラストステージ

2003年にパーキンソン病と診断されていたことを、彼は2020年に公表した。その後もライブ活動への情熱は衰えず、幹細胞治療や理学療法に取り組みながら、2025年7月には故郷バーミンガムでブラック・サバスのラストステージ『Back to the Beginning』を開催し、玉座で登場した。

この公演が彼にとって最後の舞台となった。歩けなくとも、声は衰えず、ロックの魂を届け続けたオジーは、「年を取ったと感じるのは、何かが上手くいかないときだけだ」と語っていた。最期まで“現役”を貫くその姿勢は、ファンの胸に深く刻まれた。この時にメタル界のレジェンド達がノーギャラで集い、売上の総額280億円を慈善団体に寄付したことなど、24時間テレビは爪の垢を煎じて飲めと言いたくなる。

ある種、これ以上ない完璧なバンドマンの一生だったのではないか。神様に中指を立て続けた男だが、それでいて、神の寵愛を受けた一生を送った人でもあったのだ。

 

音楽と狂気、そして優しさを抱えて

メタル界にとって、オジー・オズボーンの死は一つの時代の終わりを意味する。しかし、彼の歩んできた道のりは、ただの伝説ではない。音楽の進化を牽引し、スキャンダルで世界を驚かせ、家族とともに生き、病と闘いながらステージに立ち続けた男。そのすべてが彼の“表現”だった。

音楽で世界を変えるのではなく、音楽そのものを変えてしまった男。オジー・オズボーンの咆哮は、これからもメタルの深層で鳴り響き続ける。

 

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ライター:

株式会社Sacco 代表取締役。一般社団法人100年経営研究機構参与。一般社団法人SHOEHORN理事。株式会社東洋経済新報社ビジネスプロモーション局兼務。週刊誌・月刊誌のライターを経て2015年Saccoを起業。 連載:日経MJ・日本経済新聞電子版『老舗リブランディング』、週刊エコノミスト 『SDGs最前線』、日本経済新聞電子版『長寿企業の研究』

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