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渡辺恒雄読売新聞グループ主筆 98歳で死去 知られざる旧制東京高等学校とは

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読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が2024年12月19日、肺炎のため都内の病院で死去した。98歳だった。11月末まで定期的に出社し、役員会などに出席していたが、12月に体調を崩して入院。死去数日前まで社説の原稿に目を通すなど、最後まで執務を続けていたという。

「世界のナベツネ」の異名で知られた渡辺氏は、読売新聞グループを率いるだけでなく、プロ野球・読売ジャイアンツのオーナーも務め、球界にも大きな影響力を持っていた。その半生は、戦後の日本社会を映し出す鏡のようでもあった。

旧制東京高等学校というエリート校

渡辺氏というと岸田文雄前首相の後見人として開成中のOBというイメージが強いが、同氏が、政界や財界の巨人として君臨できた理由は、戦前旧制一高以上のエリート集団とも言われた旧制東京高等学校での人脈形成が大きく関係しているように思う。

青春時代を過ごした旧制東京高等学校は、現在の東京大学教育学部附属中等教育学校の前身である。1921年に設立された官立の7年制高等学校で、英国のパブリックスクールを模範とした自由主義教育で知られ、「ジェントルマン高校」とも呼ばれていた。自主自律の校風の中で、渡辺氏も後の言論界を牽引する人物としての礎を築いたと言えるだろう。

旧制東京高等学校
旧制東京高等学校の校舎

財団法人東京高等学校同窓会によると、同窓会員は、1回から23回までの卒業生と、高等科1年修了のみの24回生、尋常科のみ修了の25回生からなっている。卒業生の総数は4007名と明記されている。

東京帝大への高い進学率を誇り、政財界、学術・文化界に多くの人材を輩出したこのエリート校には、渡辺氏以外にも多くの著名人が名を連ねる。歴史学者の網野善彦氏、後に読売新聞社で共に働くことになる氏家齊一郎氏などは在学時代からの縁だという。

ほかにも卒業生には、SF作家の星新一氏、最高裁判所長官を務めた三好達氏、指揮者の朝比奈隆氏、作家の吉田満氏、物理学者の西島和彦氏、数学者の矢野健太郎氏など、多様な分野で活躍した人物が名を連ね、当時の東京高等学校のレベルの高さを物語っている。

戦争と共産主義、そして読売新聞へ

1926年東京生まれの渡辺氏は、旧制東京高等学校を経て東京大学文学部哲学科に入学。学徒出陣で陸軍に徴兵され、終戦後復学する。天皇制打倒を志し日本共産党に入党、東大細胞のキャップとして学生運動を率いた。しかし、党の方針に疑問を抱き、除名処分を受ける。この経験が、後の読売新聞社内での権力闘争に活かされたと渡辺氏自身も語っている。

1950年に東大新聞研究所を修了後、読売新聞社に入社。政治記者として頭角を現し、大野伴睦、中曽根康弘ら政界の大物と親交を深めた。1991年には読売新聞社社長に就任。読売新聞を発行部数世界一に導いた立役者としても知られる。

球界の「独裁者」

読売ジャイアンツのオーナーとしても、渡辺氏は強烈な存在感を示した。監督人事への介入や、プロ野球再編問題への強硬な姿勢などから、「球界の独裁者」とも呼ばれた。2004年のプロ野球再編問題では、選手会と激しく対立。日本プロ野球史上初のストライキを招いた責任を取ってオーナーを辞任したものの、その後も球団会長、最高顧問として球界への影響力を持ち続けた。

最後の生き証人

渡辺氏は、戦後日本の政治、経済、そしてメディアの中枢を担ってきた。その人生は、まさに激動の時代を駆け抜けたものであった。98年の生涯を閉じ、多くの謎を残したまま、歴史の1ページにその名を刻んだ。

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ライター:

株式会社Sacco 代表取締役。一般社団法人100年経営研究機構参与。一般社団法人SHOEHORN理事。週刊誌・月刊誌のライターを経て2015年Saccoを起業。社会的養護の自立を応援するヒーロー『くつべらマン』の2代目。 連載: 日経MJ『老舗リブランディング』、週刊エコノミスト 『SDGs最前線』、日本経済新聞電子版『長寿企業の研究』

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