アニメ『機動戦士ガンダム』は1979年の放送以来、45年を経て今も新作が作られ続ける世界中で人気のシリーズです。
『ガンダム』は従来のアニメには見られなかった「リアリティ」を持っていたことがエポックメイキングでした。それはメカニックや世界観は元より、深い人間描写からも見て取れます。
今回は『ガンダム』で描かれた人間描写の中から特に女性の描写に注目して、現代社会のジェンダー問題、特に女性の社会進出について『ガンダム』がどう表してきたかを見ていきたいと思います。
『ガンダム』が描く女性のリアリティ
『機動戦士ガンダム』を監督した富野由悠季氏(1941~)は日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』で演出を手掛けて以来、今もなお現役でアニメ制作に携わっている人物です。
彼の作ったアニメは『海のトリトン』『勇者ライディーン』『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』『機動戦士Zガンダム』など多数に及びます。
富野氏の作品の特徴は「リアリティ」です。アニメという空想の世界を描きながら、心に深く刺さるリアリティをそこに持たせている。
それが富野氏の作品が今もなお多くの人の心に残っている理由といえます。
アニメの世界で女性キャラは、ステレオタイプなヒロイン役だったり、いわゆる「萌えキャラ」にされていることが多くあります。
しかしそういったシンボライズされた女性キャラに対し、富野氏が作品の中に登場させる女性キャラは、女性が見てもリアルで、「えぐられるような」感情を抱かせます。
それは同じアニメ監督である宮崎駿氏の描く理想的な「娘」「恋人」「母」像と一線を画しています。
では富野氏が描く女性の、どういった部分が視聴者にそういった感情を抱かせるのでしょうか。今回は富野氏が描く女性、特に社会組織の中で自立するようになった女性の苦悩を見ていきたいと思います。
主人公の引き立て役からの自立
『ガンダム』までのロボットアニメに登場する女性キャラの多くは、いわゆるヒロインポジション、登場人物の紅一点といった存在でした。
『マジンガーZ』の弓さやかや『超電磁ロボ コン・バトラーV』の南原ちずるなどがその典型です。
彼女たちは時に主人公と共に戦うこともありますが、物語上の役割としては主人公と恋愛関係に発展しそうな気になる女の子、というものでした。
しかし『ガンダム』では主要な登場人物だけでセイラ、フラウ、ミライという3人の女性が登場します。しかもそれぞれに憧れの存在、年上の女性、幼馴染と違った役割を与えられています。
彼女たちは戦争に巻き込まれ、仕方なく兵士として戦います。ですから3人とも好んで戦場に赴いているわけではなく、生きるために武器を取って敵と戦っています。
本論の趣旨であるジェンダーに即してみると、『ガンダム』では女性兵士がピンク色の軍服、他の男性が青の軍服と色分けされているところが、現代のジェンダーレスの観点から批判の対象になるかもしれません。
ですが監督自身が、当時は制作上の問題から各キャラクターに違った服を着させることが難しく、一様に女性はピンク、男性は青にせざるを得なかったと言われていますので、そこは目を瞑るべきかなと思います。
彼女たち3人は、誰も主人公アムロと恋愛関係にはなりません。言い換えれば誰も作品のヒロインとしての役割ではないということです。
彼女たちは主人公の引き立て役ではなく、それぞれ物語を牽引する主要なキャラクターとして存在している。その点でも『ガンダム』はそれまでのアニメと異なると言えるでしょう。
職業を選ぶ女性たち
一大ブームとなった『ガンダム』を経て、日本のアニメ作品全体が一気にリアリティを増していきます。
富野氏が監督した作品ではありませんが、『超時空要塞マクロス』(82年)では職業軍人としての女性が多数登場します。
彼女たちは主にブリッジオペレーターで、実際に戦闘するパイロットではありませんが、男性と同様に軍服をまとい、軍人としての職務を遂行する姿が描かれています。
また登場する女性キャラクターの1人、クローディアは黒人です。
彼女はブリッジオペレーターの最年長として尊敬を集める人物として描かれていますが、昨今のポリコレ問題をはるかに先んじていたことも、ジェンダーレスと相まって先見性があったと言えるのではないでしょうか。
『ガンダム』の続編として制作された『機動戦士Zガンダム』(85年)では、エマとレコアという2人の女性が登場します。
特にレコアは男性に依存し、自分の価値を認めてくれる男性と共に生きたいと願いながら、同時に男性に裏切られた経験から来る強い不信感も持っている女性として描かれています。
男性に依存しつつ不信感を持つというこの二項対立は、現代社会で生きる女性の抗えない二面性を表しているように思います。彼女たちも職業軍人として自ら軍人という職業を選び、戦場に赴いています。
そこに「男だから/女だから」という差別はなく、彼女たちも物語の中で男性と同様に戦い、悩み苦しんでいます。そこでは、実社会に先んじてジェンダーレスの世界が描かれていたのです。
戦火の中で母になるのを諦める女性パイロット
富野氏は『ガンダム』『Zガンダム』でジェンダーによる差別を排した世界を描いていますが、ここで私が注目するのは93年から放送された『機動戦士Vガンダム』です。
この作品では『Zガンダム』にも増して数多くの女性パイロットが登場するのですが、彼女たちは戦争の渦中にいながら、強く「母」になることを希求します。
例えば主人公の少年ウッソを守る部隊、シュラク隊は全て若い女性パイロットで組織されています。彼女たちは明日をも知れぬ戦場で、人並みに恋をして母になることに憧れを抱いています。
しかし戦争の中ではそれが叶わぬ夢であることに一種の諦めも感じている。
だからこそ自らの子の代替であるようにウッソ少年に対して愛情を注ぎます。
そして彼女たちはウッソを守るために1人、また1人と壮絶に戦死していきますが、その姿は我が子を守るために自らを犠牲にする母のようにも見えるのです。
彼女たちの憧れや諦めは、仕事と家庭を天秤にかけざるをえない現代社会の女性の姿を映し出しているようにも見えます。
本来であればどちらの幸福も得てよいはずなのに、片方を得るためにもう一方を諦めなくてはならない。現代社会が抱える病巣をはるか30年以上も前に指摘している富野氏の先見性には驚かされます。
彼女たちの生き方は今も私たちに問いかける
日本のジェンダーギャップ指数がG7最下位という報道がありましたが、女性の社会進出を阻む様々な要因が現代日本にはあります。
しかし今後、制度上でのみそれが改善され、多くの分野で女性が男性にとって代わる時代になったとしても、女性の悩みや苦しみが残り続けることには変わりはないのではないでしょうか。
特にジェンダーギャップの問題は言葉狩りになっていたり「男だから/女だからという意識を無くそう」といった表層的な問題に終始してしまうきらいがあります。
しかし今まで見てきた『ガンダム』作品では、よりプリミティブな「男であるがゆえ/女であるがゆえ」に生まれる軋轢や葛藤といったテーゼが視聴者に向けて問いかけられています。
『ガンダム』作品に登場する女性キャラクターたちは思い悩みます。
しかし作品中で安易な解答は用意されていません。まるで視聴者がそれぞれに感じ取ってもらいたい、現実を生きる中で答えを見出してもらいたいと課題を与えられているようにもとれます。
『ガンダム』というフィクションの世界からリアリティをもって与えられてきた問いかけ。その問いかけについて考えることで、改めて「ジェンダーとは何か」について思いが至るのではないでしょうか。