聖火の陰で泣くアルプスの古木たち

「これが新しいオリンピックの形だ」。 2月6日、ミラノのサン・シーロ・スタジアムで行われた開会式で、主催者側は高らかに宣言した。既存施設の9割利用、分散開催によるコスト削減。
会場周辺のパブで中継を見守っていたミラノ在住のジョバンニ氏(45)は、ビール片手に顔を紅潮させる。
「イタリアにはこれが必要だったんだ。コロナ禍以降、街はずっと静かすぎた。世界中がまた俺たちを見ている。最高じゃないか!」
街は確かに熱狂していた。しかし、その喧騒から一夜明け、私が向かったドロミテの山中には、そのスローガンとは裏腹な、冷徹な現実が広がっていた。
「カラマツの虐殺」と呼ばれたボブスレー会場
ヴェネト州コルティナ・ダンペッツォ。美しい景観から「ドロミテの女王」と呼ばれるこの地で、今大会最大の火種となっているのが、新設されたボブスレー・リュージュ・スケルトン会場「エウジェニオ・モンティ」スライディング・センターだ。
「ここにあった数百年樹齢のカラマツ林を見てほしかった」
現地で環境保護活動を続けるマリアさん(30代・仮名)は、新設されたコースの脇で悔しさを滲ませる。「重機が入った日、チェーンソーの音が山に響き渡った。それはまるで、私たちの未来が切り刻まれる音のようでした」
当初、IOC(国際オリンピック委員会)はコストと環境負荷を懸念し、既存施設があるオーストリアのインスブルクなど国外開催を推奨していた。しかし、イタリア政府と組織委は「自国開催」にこだわり、建設を強行。
一方で、地元のスポーツクラブ関係者であるアルド氏(60代)は、この決定を強く支持する。
「コルティナはウィンタースポーツの聖地だ。オーストリアでやるなんて冗談じゃない。このコースは俺たちの『誇り』を取り戻すための代償なんだよ」
建設費は当初見積もりの約2倍にあたる1億ユーロ(約160億円)規模に膨れ上がったが、彼らにとってそれは必要な投資だった。
しかし、その代償としての環境破壊は深刻だ。工事のために、現地で「Laricidio(カラマツ殺し)」と揶揄される森林伐採が行われ、約500本(一部報道ではそれ以上)の樹木が切り倒された。2006年トリノ五輪で作られたチェザーナのコースが、大会後わずか数年で廃墟化した「負の遺産(ホワイト・エレファント)」の記憶が、地元住民の脳裏をよぎる。
「たった2週間の祭典のために、100年の森と巨額の維持費を犠牲にするのか」。その問いへの明確な答えは、まだ示されていない。
90%が人工雪? 気候変動との“チキンレース”
「雪が足りないのではない。寒さが足りないのだ」。 現地のスキー関係者が漏らした言葉が、今大会の気候リスクを象徴している。
1956年にコルティナで五輪が開催された当時に比べ、現地の2月の平均気温は約3度上昇したと言われる。今大会、屋外競技の雪の大部分は人工雪(テクノスノー)に頼らざるを得ない状況だ。
「天然雪だろうが人工雪だろうが、客が滑れればそれでいいんだ」。近隣でロッジを経営する男性は、現地ニュースで本音を隠さない。
「環境云々はわかる。でも、雪がなきゃ俺たちは食っていけない。五輪が来て、最新のスノーマシンが入った。これで商売が続けられるなら、俺は五輪に感謝するよ」
人工雪の製造には膨大な水と電力が必要となる。組織委は貯水池の整備などで対応したとするが、気候変動で水資源が不安定化する中、数百万立方メートルとも言われる造雪用水の確保は、地域環境への負荷そのものだ。
真っ白に整備されたコースと、その周囲に広がる茶色の岩肌。そのコントラストは、冬季五輪がもはや自然の恵みだけでは成立しない「工業製品」となったことを残酷なまでに映し出している。
22,000平方キロメートルの「通勤五輪」
今大会のもう一つの特徴は、ミラノ、コルティナ、ヴァル・ディ・フィエンメ、リヴィニョなど、会場が22,000平方キロメートル(関東地方の約半分に相当)という広大な範囲に分散している点だ。
ミラノからコルティナまでは車で約5時間(約400km)。「分散開催」は既存施設の活用という美名の下で行われているが、その実態は選手や観客にアルプス越えの長距離移動を強いるものだ。当然、そこには膨大なエネルギー消費が伴う。
さらに皮肉なのは、この移動を支えるために急ピッチで進められた山岳道路の拡張工事だ。「持続可能な大会」を謳いながら、その足元では利便性のために新たなアスファルトが山肌を覆っていく。この矛盾こそが、今大会の抱えるジレンマを雄弁に物語っている。
岐路に立つ「冬の祭典」
開会式の翌日、コルティナの街は祝祭ムードと抗議の声が入り混じっていた。 広場では観光客が記念撮影に興じ、そのすぐ横では「私たちの冬を盗まないで(Don’t steal our winter)」と書かれたプラカードを掲げる若者たちが無言で立ち尽くしていた。
ミラノ・コルティナ2026は、確かに既存施設を多用し、過去の大会よりは「マシ」かもしれない。しかし、強行されたボブスレーコース建設と、気候変動に抗うための過剰なエネルギー投入は、現在の冬季五輪モデルが限界に来ていることを露呈させた。
「持続可能性(サステナビリティ)」という言葉が、単なる免罪符になっていないか。聖火の輝きの下で、私たちはその重い問いを突きつけられている。
- コルティナ地区の2月平均気温は1956年比で約+3.6℃上昇(Climate Central調査等による)



