
10月4日深夜に放送されたTBS『オールスター後夜祭’25秋』。その中のわずか数十秒のクイズが、テレビ局と芸能事務所の関係に波紋を広げた。
「時速165キロを出したことがないのは?」画面に映し出された四択の中に、女優・広末涼子の写真があった。スタジオの笑い声が響く一方で、放送からわずか48時間後、広末の所属事務所はTBSに対して正式な抗議文を送りつけた。
“深夜の笑い”がなぜここまでの問題に発展したのか。その背後には、テレビと芸能界の力学が静かに変わり始めている現実があった。
「165キロクイズ」が生んだ波紋
10月4日深夜。生放送特有のざわめきが漂うTBS『オールスター後夜祭』のスタジオ。
MCの高山一実が「次のうち、時速165キロを出したことがないのは誰でしょう」と問いかけた瞬間、画面には「大谷翔平」「佐々木朗希」「伊良部秀輝」「広末涼子」の4人の名前が並んだ。
スタジオの空気が一瞬止まり、すぐに笑いが起こる。
「広末さんは事故を起こした際、ジープ・グランドチェロキーで時速165キロを出していたと報じられています」と高山が説明すると、観客席からは拍手とどよめきが広がった。
だがその笑いは、すぐに火種へと変わる。
所属事務所・株式会社R.Hは6日、TBSに「正式な抗議および名誉回復措置を求める内容証明を送付」。9日には公式サイトで抗議声明を公表し、「本人が関わる事件を笑いの題材として扱うことは極めて不適切」と強い言葉で訴えた。
そして同日午後、TBS側は番組公式サイトで「不適切でした」と謝罪文を掲載。わずか1日で、抗議から謝罪までのフルセットが公の場で展開される異例の事態となった。
「テレビにはもう遠慮しない」変わる芸能界の力学
今回の抗議が注目を集めた最大の理由は、「事務所がクライアントであるテレビ局を名指しで批判した」点にある。
かつて芸能事務所にとって、テレビ局は絶対的な存在だった。バラエティやドラマの出演機会を守るため、トラブルは水面下で解決するのが業界の掟だった。
しかし近年、YouTube・Netflix・舞台などタレントが活動できるプラットフォームは多様化し、テレビだけが唯一の収入源ではなくなった。
とくに広末涼子は自社代表として活動する個人事務所「R.H」に所属。大手に守られる立場ではなく、自らが経営判断を下す立場にある。
だからこそ、「黙ってやり過ごす」という選択肢を取らず、“名誉と尊厳を守る”ための公開抗議を選んだのだろう。
その判断の裏には、テレビの影響力低下と同時に、芸能人自身が直接発信力を持つ時代の変化が見て取れる。
「笑い」と「人権」の境界線
今回の件で、TBSが謝罪に至ったもう一つの理由は、「捜査中案件の取り扱い」だ。
広末が起こした交通事故は、まだ警察の捜査が継続中。報道内容も確定しておらず、公的機関からの発表はない。
それにもかかわらず、「報じられています」という形で娯楽の文脈に乗せてしまった。
放送倫理の専門家の間では、こうした事例を「笑いのための事実誤認リスク」と呼ぶ。
報道の自由と表現の自由を掲げても、捜査段階の個人に関する情報を“ジョーク”として扱うことは、名誉毀損や人権侵害のリスクを伴う。
SNS時代では、番組の一部が切り抜かれ、文脈を失ったまま拡散されることも多い。
実際、今回の放送もX(旧Twitter)では「さすがに笑えない」「これは放送倫理ギリギリ」といった投稿が相次ぎ、炎上状態となった。
深夜番組だから大丈夫、という時代は終わった。
いまやテレビのワンシーンが数分で世界に広がり、企業のブランド価値まで揺らすリスクを持つ。TBSの即時謝罪は、そうした時代の現実を物語っている。
問われる「制作現場のコンプラ感覚」
今回のクイズを企画した制作チームは、番組の毒舌を売りにするバラエティセクション。
過去にも不祥事や時事ネタをギリギリの線で笑いに変えるスタイルを貫いてきた。だが、今回のように捜査中の実名をネタ化するのは、コンプライアンスの観点からも一線を越えた。
今後、各局ではバラエティ番組にも報道並みのチェック体制が求められるだろう。
「誰かの不幸で笑いを取る構造」そのものを見直す時期にきている。
「公開抗議」が示した時代のリアリティ
クレームではなく、公式抗議文。
この一線を踏み越えたのは、テレビと芸能事務所の関係性が変わった証拠だ。
広末涼子の事務所は、文末でこう結んでいる。
「報道・表現の自由は尊重されるべきものですが、他者の尊厳や人権を侵害する表現が許されるものではありません」
その言葉は、もはや一女優の名誉を超え、メディア全体への警鐘として響く。
笑いと侮辱の境界線が曖昧になりつつある今、芸能界は新しい倫理のルールづくりを迫られている。