
ベビーフード大手のキユーピーが、2026年8月末をもって育児食事業から撤退する。1960年から65年続いた瓶詰やレトルトのシリーズは、共働き家庭を中心に一定の支持を集めてきたが、物価高や製造コストの上昇、採算性の悪化が決断を促した。育児支援が問われる今、企業の撤退は単なる商品供給の減少にとどまらず、社会全体の育児インフラに影を落としかねない。市場や家庭、行政に与える波紋を探る。
瓶詰ベビーフードに幕 65年の歴史支えた「野菜入りチキンライス」も終売へ
キユーピー株式会社は2025年6月12日、長年展開してきた育児食事業を2026年8月末で終了すると発表した。対象となるのは、瓶詰やレトルトパウチを含む全72品目。1960年に発売したベビーフードシリーズは、家庭の育児を支える定番商品として親しまれてきたが、その歴史に幕を下ろすこととなった。
同社によると、育児食の販売数量は近年低迷を続けており、さらに原材料費やエネルギーコストの高騰も加わったことで、生産継続は困難と判断したという(朝日新聞による)。育児食市場全体としては共働き世帯の増加に支えられ緩やかな拡大基調にあるが、同社の市場シェアは約10%にとどまり、事業採算性の確保が難しかったとみられる。
少子化だけが理由ではない 製造コストと品質維持の壁
同社は、生産終了の理由について「出生数の低下が直接の原因ではない」と明言している。実際、日本の出生数は2024年に68万人台となり、初めて70万人を割り込んだが、市販の離乳食需要は一定程度存在している。むしろ焦点は、瓶詰製品に特有の製造コストと、長期保存性を実現するための品質維持負担にある。
瓶詰容器は高温殺菌が可能である一方、エネルギー使用量が大きく、近年のエネルギー価格高騰が打撃となった。また、厳格なアレルゲン管理や衛生基準への対応も、量産品としては過度な負担となりつつあった。物流や小売における返品・廃棄のリスクも小さくない。
共働き家庭に及ぶ影響 離乳食の“セーフティネット”が縮小する懸念
キユーピーの育児食事業終了は、特に出産後早期に職場復帰する母親層にとって、日々の食事準備にかかる負担を増す可能性がある。厚生労働省の「就業構造基本調査」(2022年)によれば、子どもが1歳になるまでに職場復帰する女性の割合は6割を超えており、都市部ではそれ以上とみられる。
こうした層にとって、市販のベビーフードは「時間を買うための必需品」であり、栄養設計済みの食品を常備することは、家庭の安定を支える一種の“セーフティネット”であった。朝夕の時間帯における時短ニーズ、子の体調不良時や災害時の備蓄食など、瓶詰やパウチのベビーフードが果たしてきた役割は小さくない。その選択肢が減ることは、「手作り」一択を強いる環境になりかねず、働く母親たちの精神的・身体的な負担増につながるおそれがある。
キユーピー撤退の波紋 他社の“静かな再編”も進む可能性
育児食市場においては、アサヒグループ食品の「和光堂」ブランド、ピジョン、ビーンスターク・スノー(雪印ビーンスターク)、森永乳業などが製品展開を続けている。とりわけ和光堂は1906年創業の老舗であり、市場の信頼度も高い。
キユーピーの撤退を受け、他社は一様に「驚きとともに危機感を持って受け止めている」(流通業界関係者)とされる。事業継続を決めている企業の多くは、今回の事態を“自社の優位性を再確認する機会”と捉える一方、「次はどの企業が撤退してもおかしくない」との緊張感を抱えているのが実情だ。
特に注目されるのは、今後の事業戦略の方向性である。複数の育児食メーカーでは現在、以下のような対応が進められているとみられる。
- 冷凍タイプやチルド商品の強化
- EC・定期配送サービスへのシフト
- 中食・外食産業との連携によるOEM展開
- SDGsや食品ロス対策を掲げた高付加価値化
一部企業では、社会的意義を前面に出すことで価格帯の上昇を正当化しつつ、保育園や子育て支援施設との連携を図るなど、新たな市場形成を模索する動きも見られる。
“家庭任せ”から“社会全体で支える育児”へ
育児食の市場再編は、単なる企業戦略の問題にとどまらない。市販品が撤退することで、家庭内の食育と育児負担の格差が広がる懸念がある。たとえば、調理スキルや時間的余裕の有無、情報へのアクセス手段の違いが、子どもの栄養状態や親のメンタルヘルスに与える影響を顕在化させかねない。
こうした中、自治体や医療機関による「離乳食講座の無償化」や「支援パッケージの配布」、企業と連携した「調理キットのクーポン提供」など、次世代の子育て支援に求められるアプローチは多岐にわたる。
キユーピーの決断は、一企業の判断を超えて、育児を取り巻く社会構造の変化、さらには“子育てと経済の両立”という長年の課題に改めて光を当てる出来事となった。