2024年10月、高級ファッションブランドとして知られる「ブルネロ・クチネリ」の会長、ブルネロ・クチネリ氏が「WWD ジョン B. フェアチャイルド賞」を受賞した。ジョン B. フェアチャイルドが発行人を務めたアメリカの著名な日刊紙「ウィメンズ・ウェア・デイリー」が毎年贈るもの。
受賞理由は、企業としての成功だけでなく、「卓越性、創造性、職人技、独自性、そして人間の尊厳への深い配慮」など多岐にわたる。特に長年取り組んできた本社のあるソロメオ村での慈善活動は高く評価された。同氏は、現代社会においてしばしば形骸化しがちな「サステナビリティ」という言葉ではなく、「人間らしいサステナビリティ」と「人間主義的資本主義」を提唱し、真に持続可能な社会の実現を目指している。
原点は農村での生活と、父の働く姿
ブルネロ・クチネリ氏の哲学は、幼少期の原体験に根ざしている。電気のない農村で自然と調和した生活を送る中で、大地への深い畏敬の念を育んだ。一方、都市部の工場で働く父親が、人間性を軽んじられる労働環境に苦しむ姿を目の当たりにし、「人間の尊厳」を守る重要性を痛感したという。これらの経験が、後の「人間中心主義」という経営哲学の礎となったと語っている。
ソロメオ村の再生:故郷への恩返し
1985年、クチネリ氏は本社を故郷であるイタリア中部の小さな村、ソロメオ村に移転。ソロメオ村は愛妻フェデリカさんの出身地であり、この地にあった14世紀の古城を購入し、本社を移したようだ。
朽ち果てつつあった小さな村で地域復興と職人技術の継承に向けた取り組みを重ね、再生に尽力しはじめたことが今日のブルネロ・クチネリに繋がっている。
2013年には「ソロメオ職人学校」を開設。村の麓にある使われなくなっていた工場を買い取り、修復して新社屋とした。この取り組みは、同社の「人間尊重」という理念に基づく地域社会への貢献活動の一環とのこと。
このソロメオ職人学校では、厳しい選考を経て入学を許可された学生が、数十年にわたり技術を磨いてきたベテラン職人から直接指導を受ける。同校の学生は、卒業後にクチネリ社での就職を希望する者が多いものの、同社に就職することが入学の条件ではなく、幅広い選択肢が用意されていることも特徴だ。
2014年には、同社の地域復興計画が「美に関するプロジェクト」として第二段階に進展。「産業公園」「スポーツ・運動公園」「農業公園」の整備が進められ、2018年にすべての施設が完成した。産業公園には同社の本社が含まれ、スポーツ・運動公園にはサッカー場が設けられた。農業公園ではオリーブやブドウ、小麦、トウモロコシ、アプリコット、桃、ナッツ類などが栽培されており、ここで収穫された作物は社員食堂で提供されるほか、地域住民によって消費されている。
関わるステークホルダーを大切に。売上や社員数について
クチネリグループの従業員は2,623人(フルタイム換算)で、2022年の2,308人から315人増加している。管理職は93人。事務・販売スタッフが1833人。製造スタッフは696人。さらに外部の請負業者が雇用する人数は約3,000人に上るようだ。
同社は従業員の待遇向上にも力を入れており、イタリアの平均賃金より約20%高い給与を支払っている。社員食堂は350人以上が収容できるスペースで、地元の主婦が地元の食材を用いてウンブリア地方の伝統料理を振る舞うなど、働きやすい環境が整えられている。
また、同社の売上高は、ANNUAL FINANCIAL REPORTの2023年度版によると、売上高は11億3942万ユーロ(約1738億円)を超え、2022年の9億1,970万8,000ユーロから23.9%増加したという。うち約8割は海外市場から生み出されており、イタリアの小さな村に拠点を置きながら、グローバル市場でのビジネスを成功させていることが伝わってくる。
営業利益は1億8,740万6,000ユーロ。前年より約40%も改善している。地域経済への波及効果も大きく、雇用創出や地元農業の活性化など、地域社会にとってクチネリ社の存在は大きな意義を持っている。
こうした歴史的建造物の修復、職人学校の設立、雇用の創出など、多岐にわたる活動を通じて、ソロメオ村は活気を取り戻した。これは、経済的な成功を地域社会に還元するという、彼の哲学の具現化と言える。
利益と社会貢献のバランス:人間主義的資本主義という経営の実践
ブルネロ・クチネリは、従業員を尊重し、地域社会に貢献し、環境に配慮した経営を実践している。従業員にはイタリアの平均賃金よりも高い給与を支払い、地元食材を使った食事を提供。地域住民には雇用機会を提供し、地域経済の活性化に貢献している。環境面でも、工場周辺の緑地化や農業の推進など、持続可能な社会の実現に向けた取り組みを行っている。
ブルネロ・クチネリの「人間主義的資本主義」という在り方の背景にあるのは、企業の成功は人間の尊厳を守ることにあるという考えだ。企業は職場環境や報酬面を整えることが、企業の持続可能性に寄与すると信じている。具体的には、自社の職人だけでなく、すべてのサプライチェーンにおいて人間性の持続を最優先させることを推進している。関わる全てのステークホルダーを大切にするという在り方であり、「ESG」や「SDGs」といった昨今のグローバル潮流にも左右されない普遍の考え方だと言える。
世界的な広がりを見せるクチネリ哲学、真の豊かさとは?
クチネリ氏の哲学は、世界的な広がりを見せている。G20サミットでのスピーチやローマ大学での名誉博士号授与などを通じて、その思想は多くのビジネスパーソンや学生に感銘を与えている。
例えば、G20サミットでは、自らの哲学を力強く訴えている。「すべては大地から生まれる」という古代ギリシャの哲学者クセノパネスの言葉を引用し、自然との調和の重要性を強調。同時に、人間の尊厳を守り、倫理と尊厳を尊重しながら利益を生む事業の必要性を訴えた。それは、経済成長と社会正義の両立を目指す、新たな資本主義のモデルと言えるだろう。
ローマ大学での名誉博士号授与式では、若者たちに向けて力強いメッセージを送った。「おどろおどろしい恐怖に耳を傾ける暇があれば、もっと希望がもてる話を聞け」という言葉には、未来を担う世代への期待と激励が込められている。
未来への希望:人間らしいサステナビリティ
ブルネロ・クチネリ氏の哲学は、単なる理想論ではない。ソロメオ村の再生という具体的な成果を通じて、その実現可能性を示している。それは、経済的成功と社会貢献、環境保全を三位一体で実現する、真に持続可能なビジネスモデルと言える。
クチネリ氏は「美しさとは美しい人間関係から生まれる」と語る。従業員、地域住民、そして自然との調和を重視する彼の経営哲学は、現代社会における真の豊かさとは何かを私たちに問いかけている。それは、物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさ、人間関係の豊かさ、そして自然との調和がもたらす豊かさの追求である。
これは伝統的な日本型経営の価値観にも近しい。長寿企業大国である日本では、多くの企業が近江商人の三方よしなどを理念として掲げるが、これも自社に関わる全てのステークホルダーに適正に利潤を分配し、自社の持続性を考慮する経営をとることが特徴で、ブルネロ・クチネリの在り方に近い。
ブルネロ・クチネリの活動は、サステナビリティを単なる流行語ではなく、人間の尊厳と自然との調和を基盤とした、持続可能な社会の実現に向けた具体的な行動として示している。
ブルネロ・クチネリという一人の経営者の挑戦は、これからの時代に求められるビジネスのあり方、そして私たちが目指すべき社会の未来像を示唆していると言えるだろう。