渋沢栄一が結果として実践したステークホルダー資本主義の取り組みを考えるにあたり、ともに明治の日本の産業社会発展のリーダーにして、一万円札の肖像にも選ばれた福沢諭吉と対比するとわかりやすい。
まず、D号券と呼ばれる札券で、福沢諭吉の起用開始は1984年のこと、ちょうど日本が経済に自信をつけ始めたころの話だ。
その後、日本はプラザ合意による円高、バブル経済とその崩壊、リーマンショック、3.11と様々な災難に見舞われた。イデオロギー的には1991年にソ連が崩壊し、資本主義が共産主義に勝利した。
共産主義より、ましな資本主義だと思っていたところが、我々はそれでは幸せになれないと気づき、ポスト資本主義を展望する中で、新しいリーダー像としての渋沢栄一が再評価され、今回発行予定のE号券の顔となったとも言えるのではないか。
それではこの二人の差異は何なのだろうか?
渋沢栄一と福沢諭吉
渋沢栄一の研究者の一人である大原大学院大学 村田大学は福沢諭吉と渋沢栄一の比較にあたって次のように述べている。
「日本にいち早く西洋式簿記を紹介し、渋沢と同様に明治以降の日本の経済発展に貢献した人物に福沢諭吉がいる。経営史学者のヨハネス・ヒルシュマィヤー(Johannes Hirschmeier)=由井常彦(1977)は、渋沢栄一と福沢諭吉の経営理念の比較を行っている。
まず、両者の共通点としては以下の点挙げられる。
①商工立国のための「実業家」の養成を図ったこと
②高邁な経営理念の重要性を理解していたこと
③理想主義者の側面をもちつつも現実的な感覚を持っていた
すなわち、高尚な経営理念をもった実業家を育成し、このような実業家による日本の経済発展を目指したという点では共通していたのである。
しかしながら、ヒルシュマィヤー=由井は、経営理念の基礎となる思想の内容そのものは、渋沢と福沢では対照的であったと指摘する。渋沢が西洋思想ではなく儒学を自らの思想の基盤としたのに対して、福沢は西洋思想を基盤として儒学を排斥した。
また、渋沢がビジネスの公益性を強調したのに対して、福沢は向上心と能力を持った立派な青年の役割を重視した。」(「渋沢栄一の経営理念の特徴と今日的意義」)
また、桜美林大学 太田哲男は両者による公共的意識の差を指摘している。
「渋沢を、福沢諭吉(や中江兆民)と比較すると、若き日に洋学の学習経験がなかった点が注目される。渋沢自身、“私が学問を致 すべき盛りの齢頃には、世の中が騒がしくつて落着いて学問などして居るわけに参らず、為に私は遂に洋学を修める機会を逸してしまつた”と回想している。(欧州視察後)50年近く後の回想であるが、渋沢は、フランス行きの際に、自分は“確かに攘夷論者である けれども、自分は外国の事を知らぬ。知らずして彼是云ふより 外国の事を知らねばならぬ。又外国から学ばねばならぬ事も多い筈である。”と考えたという。
このあたりの渋沢の考え方をみると、福沢諭吉の“一身独立して一国独立す”という観点に通いあうところが感じられる。福沢が明治政府の役職につくことを拒否したのに対し、渋沢はいっときとはいえ大蔵省に勤務した。そういう伝記上における差異だけでなく、考え方の上の差異もある。
渋沢自身は福沢について次のように述べている。“何事にも独立的精神、自営自治の心を持たなくてはならぬのは勿論である。けれども〔中略〕、社会国家といふものを向ふに置いて、極端なる独立自営の心を持つてゆくのは 如何いふものであらうか。
斯かる場合から推究すると、彼の福沢諭吉先生の唱へられた独立自尊といふが如きは、或は余り主観的に過ぎて居りはせぬかと思ふ。”(『青渊百話』 193頁)
ここに「主観的」とあるのは、“自己の存在は第二として先づ社会あることを思ひ、社会の為には自己を犠牲にすることも憚らぬといふ迄に、自我を没却してかゝるもの”が客観的であるのに対し、“何事も自家本位”にするという意味である。(『青渊 百話』4頁)
つまり、渋沢からするならば、福沢の“一身独立”には社会のためという契機が希薄で、“何事も自家本位”になっているという評であった。」と指摘している。
つまり、儒学を背景に持つ渋沢は公益の観点からステークホルダー全体を意識する視座をもともと持っていたと考えられる。
渋沢栄一と儒教
先述のように、渋沢栄一のステークホルダーを重視する思想は儒教にあるのだが、その中でも、直接「論語」に当たることを強く意識していた。
「渋沢が幼き日から漢学に親しんだことはすでにふれた。その経歴を、やや別の角度からふりかえると、次のようなこともある。“元来余は漢学で教育されて来た人間だけに、儒教を以て自己行為の標準とした。従つて自分が処世上唯一の経典として居るのは論語である”とし、「論語を遵奉して来た為に斯んな不都合が ある、あんな不条理に出会うたといふ様に感じたことは今だ曾て一回も無かつた。」(『青渊百話』26頁)
儒教を学んで育ったものの、江戸時代には「商人と役人との社会的階級の相違は甚だしかつた」(『青渊百話』六一頁)と渋沢は回想する。京・大坂の商人層が渋沢の郷里の商人たちと同様だったかはともかく、渋沢は武蔵国の農民・商人として育った。商工業者は皆甚だ卑屈で、在官の人に対すればたゞ平身低 頭するのみで、当業の発展を期する為に邁往勇進する気象などは薬にしたくも無い、官尊民卑の旧習の故とは云へ、 これでは何ともならぬ、成不成はいざ知らず、寧ろ自分自ら官を辞し、商工業界に入りて、存分に働いて見たいと思つたのである。(幸田露伴『渋沢栄一伝』233頁)」
「渋沢は儒教を重視したとはいっても、朱子学的立場はとらない。朱子学の儒者は、利益を卑下し、“功名心を敵視”」(『青渊百話』 112頁)するからだが、渋沢は“道理正しき功名心は甚だ必要である”」と考え、陽明学派への親近性を次のように表明していた。
“王陽明の知行合一説は此の点に於て最も価値あるもので、 学問と実際とを接近せしむるところは彼の朱子学一派の輩をして顔色なからしめて居る。”(『青渊百話』168頁)伝記的事実としては、渋沢は陽明学会のために大いに尽力していた」。(太田哲男)
欧州視察で獲得したもの
渋沢栄一の儒学の素養に加え、全ステークホルダーに対する配慮は欧州視察時代に培われた。彼は1867年パリ万博使節団(同年4月開催)員として、徳川慶喜弟の武昭に同行している。(しかし、この年に、幕府は崩壊し同年10月に大政奉還となった次第。)渋沢は、“自分は外国の事を知らぬ。知らずして彼是云ふより 外国の事を知らねばならぬ。”と認識していたように、この機会を物見遊山とすることなく、フランスにおける国家全体の経済運営の仕組みを理解しようと努めた。この結果、彼我の差に大きな衝撃を受ける。同時に企業家の役割を認識し、自ら事業家となる決意をしたのだった。
「昭武は、パリ万博終了とともに帰国ということではなく、しばらく欧州で暮らすはずであったが、幕府の倒壊とともに帰国せざるを得なくなり、渋沢もそれに従った。いずれにせよ、欧州経験によって渋沢は、経済的な方面のみならず、多方面に見聞を広め、国際的な感覚も培ったことは確かであろう。日本に戻った渋沢は、静岡藩主となっていた慶喜のもとに戻り、静岡藩勘定組頭などの仕事をこなした。69年に明治政府に出仕、大蔵省関係の仕事をして、73年に退官し、実業の世界での仕事を始めることになった。」
「経済的な方面での見聞と書いたが、それはたとえば金融についての考え方や銀行のことである。渋沢は明治初年頃の「金融方法」について、“併し私は其当時考へた。若し日本の経済界の将来を完全に進めて行かうとするには迚も是ではいけない。詰り欧米の先進国の遣つて居るやうにして行かなければならぬと、自分の独創的の考へを持つて居つた。所謂合併組織の会社制度を設けなければならぬと思つた ”と回想している。このような思いをいだいて、渋沢は民間人として実業界に乗り出した。
松陰などが“一身を賭けても渡航して視察したいと願つた外国へ、徳川将軍の連枝たる民部公子〔徳川昭武〕の従者として、 十分に便宜多き資格を以て各国に臨み、世界の何様いふ様子で あるかを知ることが出来る活学問の途に上り得るのである。” (120頁)」
「渋沢は、フランスからの帰国から50年余り後のことだが、 次のように回想している。“渡欧より帰国するに当つても、先づ我国の経済界を改革する事が刻下の一大急務であると信じ、此の目的に向つて懸命の努力を為す可く心私かに誓つて居た実業家として進もうと考えた”際に、渋沢が心していたことがあった。
第一に、“実業を何時も政府の肝煎にばかり任せて置いては、 決して発達せぬ、民間に品位の髙い知行合一の実業家が現はれ、率先之に当るやうにせねばならぬものであると感じた”と、経済の自立性を主張している。
第二は、“公益主義”(『青渊百話』23頁)である。渋沢が起こした会社の数が500ほどになるといわれることはよく知られている。島田昌和『渋沢栄一』は、渋沢の関わっ た会社のうち、延べ178社をいくつかにカテゴリー化しているが、日本煉瓦製造、東京製綱、東京人造肥料、東京海上保険、王子製紙、東京瓦斯、札幌麦酒などのように、“それまでの日本には存在しなかったまったく新しい欧米の知識や技術を導入し た業種がきわめて多い”(59頁)という。ここに渋沢の事業の方向性が看取できる」。(以上、太田哲男)
このようなフランスでのリサーチを元にした産業観をもって、日本での展開を実施、イーロン・マスクも驚く(?)ような規模とスピードで民間事業の連続的な立ち上げを行ったのだ。
経営から社会への構想
さて、論語を背景として、事業構想を立てた渋沢であるが、経営学史的な観点から、先述の文京学院大学 島田昌和は次のように言う。
「渋沢の場合、よく知られるように彼の構想力は経営のレベルを超えて社会を構想するレベルまで視野に入っていた。どうして経営を構想する中で社会を構想するレベルに昇華していったのかを検討してみたい。そこには大きな「動機」が存在する。
A.H.コール(ハーバード大学 企業者史研究センター)は、企業者活動の動機付けを“企業体が貨幣の増殖に関係するものであることはことさらいうまでもなく”、“会社の永続性、地域社会との関係、あるいは公共的責任を考慮に入れるようになった”といい、さらに“家族の安定性ということが一段と大きな意味を持っている”と述べている(コール[1965]15~16頁)。
これに照らすと渋沢の場合、欧米近代社会においては経済の側面が強いことを渡欧時に強く認識している。“会社の永続、地域社会との関係、公共的責任”の側面が強いと言えるだろう。“最後の家族の安定性”は渋沢同族会や渋沢同族会社の設立に現れているが、同時に長男を素行問題で廃嫡するなど優先されるべき存在とは考えていなかった(島田昌和[2011]第3章)。
社会に対する渋沢の行動の動機とは何だったのだろうか。よく知られた渋沢の使用したスローガンに“官尊民卑の打破”がある。欧米をみて国王と銀行家が同等に対していることを、権威のみで理不尽に「民」に強要するような封建社会の日本の「官」の力の強さと対比的にとらえた。
すなわち、日本が近代社会になるためには強い「民」の育成が不可欠との思いを強くするようになった。強い 「民」 を作るためには「民」の力の結集が必要であり、江戸時代以来の商家の個人財産による経営体では 「民」 の力の結集にはならなかった。株式会社は本源的には私的利潤追求の装置であったが、鉄道や銀行のような地域のインフラとも言えるビジネスは特に特定個人への利益誘導を阻止するために多くの株主が参加する株式会社形態で設立することを推進した。
すなわち、株式会社は特定個人の私的利得の突出を制限するための装置であり、 それを 「合本」 の名で呼び、「民」 が 「官」 =政治権力に立ち向かうための「公共性」を持つ 装置となる必要があったのであった。そのために、これまた渡欧時に「知覚」した「複式簿記」 を全面的に導入して、会計をガラス張りにし会社という組織運営に対する個人の恣意性を極力 排除することを重視した(島田昌和[2011])。
このような社会に対する動機に基づいて渋沢が構想した近代社会は以下のような社会であった。出自や財産に関係なく、多くのプレーヤーがビジネスに対する能力、意欲によって競争し、その勝者が大きな利得を得られる社会を創出し、出自や資産、権威と関係なく、社会的に成功できる機会がある社会形成に寄与した。公正な競争と正しいビジネスの選択こそが社会を発展させることを喧伝し、成功したビジネスマンに公共の福祉、公共への貢献を必要なモラルとして求め、その普及宣伝に努めた」。(島田昌和)
以上、渋沢栄一の思想、事業構想の背景を追ってみた。
福沢諭吉はアヘン戦争により清が列強侵略される状況や、咸臨丸による米国視察などによる危機感をもって、日本人の意識覚醒と民度向上に情熱を傾けたわけだが、あくまでも個人の独立自尊心の醸成を目指した。
一方、渋沢栄一は、元幕僚らしく国の内部にいる者の視点で、全体をどうするのかという見方から、産業育成システムに関心を持ち、そのメカニズムを解明して実践したという違いがあると言える。
渋沢は、そのメカニズムが機能するためには、第一銀行にお金を預けるであろう一般国民も含め、すべてのステークホルダーが参画することが必要であることを見抜いていたのだった。