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所沢のタイソンが拡散した「合意論」と私刑の危うさ 真実不在のまま揺れる熊本中学生暴行動画で何が起きているのか

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所沢のタイソン
教育番組タイソンチャンネル YouTubeより

熊本で中学生が暴行を受ける様子を撮影したとみられる動画がSNSで拡散し、学校や教育委員会、警察対応へと波紋が広がっている。熊本県内では保護者説明会が開かれ、被害者側が警察に被害届を提出したと報じられた。
一方で、事件の周縁では第三者の発信が過熱し、事実確認よりも早く「空気」が作られている。所沢のタイソンを名乗るYouTuberの言説は、その象徴だ。ネット私刑が生む混乱と二次被害の重さが、いま改めて問われている。

 

所沢のタイソンが提示した「合意だった」という物語

所沢のタイソンは、埼玉県所沢市周辺を拠点としているとされる人物で、SNSやYouTubeを通じて強い言葉と断定的な語り口を武器に注目を集めてきた。

公的な立場や専門的肩書を持つわけではなく、いわゆる「当事者でも報道機関でもない第三者」として、事件や炎上事案に独自の見解を示す配信スタイルで知られている。

今回、所沢のタイソンは自身のYouTubeチャンネルを更新し、熊本の中学生暴行動画について独自の解釈を提示した。動画内では、加害者とされる人物を含む複数の関係者から話を聞いたと説明した上で、流出した映像について
「完全に合意の上でのタイマン、喧嘩だった」
と結論づけている。

その根拠として示されたのが、喧嘩のルールを決めたとされる場面の短い動画の一部と、被害者本人から送られたとする「ガラをかわした方が良い(逃げた方が良い)」といった内容のLINEだ。
これらを組み合わせ、「合意」という一点に収束させた説明は、視聴者にとって非常に分かりやすい構図になっている。

しかし、その分かりやすさの裏で、どこまでが事実で、どこからが解釈なのかという境界は曖昧なままだ。第三者の立場から切り取られた断片を積み上げ、「物語」として提示する行為そのものが、今回の混乱を拡大させる一因になっている。

 

コメント欄に現れた被害者本人の異議

その「合意だった」という物語に、決定的な揺らぎを与えたのが、コメント欄に現れた被害者本人を名乗る人物の書き込みだった。

被害者は、

喧嘩のルールを自分が仕切った事実はない、相手側から「どっちが死ぬまで」と言われ、恐怖と萎縮の中で迎合的な提案をしてしまった。

「逃げた方がいい」というLINEも、加害者側の人物から「止めろと言え」「警察を飛ばすな」と圧をかけられた結果、送らざるを得なかったと説明している。

ここで浮かび上がるのは、「合意」という言葉が成立する前提条件そのものだ。
恐怖や威圧、力関係の偏りがある状況で発せられた言葉は、自由意思とは言い難い。
仮に文面だけを切り取れば「心配している」「逃げろと言っている」ように見えても、その背後に強い誘導や圧力があったとすれば、意味はまったく変わる。

LINEや動画が「証拠」に見える瞬間ほど、慎重な検証が求められる理由がここにある。

 

仮に合意があったとしても暴行は成立する

さらに重要なのは、仮に一定の合意があったとしても、それだけで暴行性が否定されるわけではないという点だ。
評価の基準になるのは、言葉ではなく現場での行為である。

・一人の被害者を複数人が取り囲み、逃げ場を失わせた状況
・被害者が降参のポーズを取った後も、暴力が続いたとされる点
・第三者が制止に入らない、暴言や煽る言動

これらが事実であれば、「タイマン」や「喧嘩」という枠組みは完全に崩れる。
合意は、拒否や降参の意思が示された時点で効力を失う。そこから先は、一方的な暴力だ。

「合意だった」という言葉が免罪符のように使われる場面は多いが、暴力の評価は常に行為ベースで行われる。この原則を無視した議論は、どれほどもっともらしくても成立しない。

 

家族名や周辺情報に踏み込む私刑の暴走

混乱を決定的に深めているのが、所沢のタイソンが動画内で被害者の家族名を挙げ、
母、次男、被害者本人のこれまでの傷害事件や母と反社会的勢力との関係といった情報にまで踏み込んでいるとされる点だ。

仮に、これらの一部が事実だったとしても、それが今回の暴行事件の評価を左右する理由にはならない。むしろ、論点を意図的に拡散させ、「被害者側も問題があるのではないか」「どっちもどっちでしょ」という空気を作る効果を持つ。

これは私刑が暴走する典型例だ。
暴力の是非を問うはずが、人格や家族背景の断罪へとすり替わる。
真偽不明の情報が拡散されれば、名誉毀損や深刻な二次被害を生む可能性は極めて高い。

 

私刑の功罪と「踊らされる側」が生まれる構造

私刑を全面的に否定できない現実があるのも事実だ。
過去には、ネット上の告発が行政や警察を動かした例が確かに存在する。
DEATHDOL NOTEのような存在が、初動で動かなかった問題を可視化し、結果として都道府県や警察、国レベルの対応を引き出した。

だが、ここで見誤ってはならない。
機能したのは「告発の入口」であって、「私刑による断罪」ではない。

成功体験は、次の私刑を正当化する。
そして次第に、慎重さよりも速度が、検証よりも断定が優先される。
その結果、視聴者は正義に参加している感覚を得る一方で、実際には誰かの作った物語に踊らされる立場に置かれる。

 

真実は当事者と司法にしか分からない

熊本の件では、すでに熊本県警が捜査に動いている。事実関係を精査し、責任の所在を明らかにするのは、最終的には司法の役割だ。

第三者が一方の話や断片的な資料だけで結論を出すことは、真実に近づく行為ではない。
むしろ、真実を遠ざける。

必要なのは線引きだ。告発と断罪を混同しないこと。分かりやすい物語に飛びつく前に立ち止まること。真実は当事者と司法にしか分からないという前提を、社会が共有できるかどうかが問われている。

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ライター:

千葉県生まれ。青果卸売の現場で働いたのち、フリーライターへ。 野菜や果物のようにみずみずしい旬な話題を届けたいと思っています。 料理と漫画・アニメが大好きです。

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