
世界の映画祭ですでに4冠を獲得し、台北金馬映画祭では日本人として史上初のNETPAC賞に輝いたゆりやんレトリィバァ初監督作『禍禍女(まがまがおんな)』。20日、新たなキャストと本編映像が公開された。
平和なはずの美大を舞台に、登場人物たちの言葉と沈黙が奇妙に絡み合い、どこか“正常ではない空気”が静かに揺れ動く。恋愛を題材にしながら、その奥に潜む狂気を濃密に描き込んだ異色作の世界が、ようやく姿を見せ始めた。
映像から漂う「日常がひっくり返る気配」
公開された映像はわずかな断片に過ぎないが、その短さゆえに、むしろ観客の不安を煽る力を持っている。美大の一角に佇む主人公・上原早苗の横顔には、どこか感情の“穴”のようなものが見える。周囲の学生が笑っているのに、彼女だけが時間の流れから取り残されたような表情を浮かべ、視線だけが妙に鋭く、どこかを探している。
その場に吹き込む風の音、擦れ合うキャンバスの布の音、誰かの小さな笑い。どれも日常の風景のはずなのに、映像ではそれらが異様に誇張され、音が立って聞こえる。平穏の中に、触れれば崩れ落ちそうな薄皮のような不安だけがはっきりと浮かび上がる。
ゆりやんレトリィバァの実体験をもとにした恋愛映画でありながら、そのトーンは一般的な恋愛劇とは大きく異なる。淡い恋心の裏側で、誰もが心のどこかに抱える狂気めいた執着が静かに膨れ上がっていく過程を、映像は予告なしに突きつけてくる。
豪華な出演陣が漂わせる“役の狂気”
主人公を演じる南沙良のほかに、前田旺志郎、アオイヤマダ、高石あかり、九条ジョー、鈴木福、前原瑞樹、水島麻理奈、本島純政、平田敦子、平原テツ、斎藤工、田中麗奈が名を連ねた。
特に印象的なのは、映像の中でキャストたちが交わす、どこにも感情が乗っていないようで、どこかで感情が暴れているような、不思議にねじれたセリフ回しだ。意味不明に笑う者、言葉を飲み込む者、必要以上に近づきすぎる者。その一つひとつが日常から半歩ズレており、人間の心の底に沈んでいる感情の乱反射を映し出す。
斎藤工は撮影現場を「朝礼の一言で場の空気がねじれるようだった」と振り返る。俳優たちがゆりやんならではの狂気のリズムに乗せられていく過程は、現場にいた者だけが目撃した異様な風景だったのだろう。
1年間語り続けた恋愛が、狂気の物語へと変貌した
企画の出発点は、ゆりやんが番組で語った「映画を撮ってみたい」という何気ない一言だった。だがその後、プロデューサーは彼女と何度も会い、1年間にわたって彼女の恋愛体験を聞き続けることになる。
それは、甘く切ない思い出ばかりではない。嫉妬、執着、裏切り、沈黙、後悔、狂おしいほどの愛情。恋愛の持つあらゆる感情が、ゆりやんの独特の語り口で語られたという。
聞き手は次第に気づく。彼女の恋愛は、ただの恋ではない。
「相手に触れたい」「理解されたい」という純粋な願いと、
「傷つけたくないのに傷つけてしまう」
「愛しているのに壊したくなる」
という相反する感情が同居し、互いにぶつかり合っては形を変え続けている。
こうした揺れ動く心の温度差が脚本に刻まれ、映像の細部にまで混ざり合っている。
台北金馬映画祭の授賞式に満ちていた異様な静寂
19日の授賞式。李屏賓氏から賞状を受け取るゆりやんの姿がスクリーンに映し出された瞬間、会場は静かになった。
ただの沈黙ではない。
「予想を超える作品を目撃した」という観客の空気が、重く、深く、会場全体を包み込むような静寂だった。
そのあと一斉に拍手が起き、ゆりやんは涙を浮かべた。
NETPAC賞はアジアの映画文化を牽引する作品に贈られる重要な賞。審査員は「常識を裏返す大胆な語り口」「予測不能の展開」「現代社会への硬質な切り込み」を高く評価した。
お笑い芸人が作った映画という軽い枠は、この瞬間、確実に壊れた。
狂気の恋愛映画が残す余韻
ゆりやんレトリィバァが初めて監督した『禍禍女』は、恋愛の純粋さと狂気が表裏一体であることを、薄い膜のような映像表現の中に緻密に閉じ込めた作品だ。
公開された映像やキャストたちの表情からは、物語の核心に触れる前の奇妙なざわつきが絶えず漂い、観客を静かに不安へと誘う。追加キャストと受賞のニュースが重なり、作品への視線はますます熱を帯びている。
2026年2月の公開に向け、映画がどのような“狂気の形”で観客の心を揺さぶるのか、その行方に注目が集まっている。



