
公開から10日余りで興行収入10億円を突破した映画『爆弾』。
取調室という閉ざされた空間で繰り広げられる心理戦は、観客の視界を揺らし、終盤に向けて次第に呼吸を奪っていく。SNSでは《今年No.1》《恐怖と笑いが同居している》《137分が一瞬だった》などの声が止まらず、口コミが急速に広がっている。
なぜ原作ミステリーの映画化が、ここまで長く強い支持を得ているのか。鍵となるのは、スズキタゴサクを演じた佐藤二朗の“怪演”と、群像劇としての多層的な構造だ。本作のヒットの核心を探る。
秋葉原の爆発音が“観客の心理”をも破壊した
午前10時。薄暗い取調室には、蛍光灯の微かな唸りだけが響いていた。
酔いが抜けきらない中年男、自称・スズキタゴサクは、机に肘をついたままゆっくりと言う。
「10時になったら、何かが起こるよ」
その言葉を切り裂くように、秋葉原で爆発が起きる。
一瞬で世界が反転し、観客はタゴサクの予言を疑いようのない現実として受け止めざるを得なくなる。
この導入の緊迫感が、映画に強烈な推進力を与えている。最初の10分で観客の認知を揺さぶり、以降の会話のすべてに意味を帯びさせるのだ。
タゴサクの狂気は、観客の中に眠る“匿名の悪意”を映す
タゴサクは一般的な知能犯とは程遠い。
丸刈りの頭、くたびれた表情、卑屈で自虐的な口ぶり。
しかしその言葉の端々には、観客がふと共感してしまうような“痛み”や“社会への怨嗟”が紛れ込む。
「俺みたいなやつは、誰にも見られてないんだよ」
「偉そうにしている奴ほど、実は脆い」
こうした一瞬の正論が、爆弾魔とは思えない奇妙な説得力を持ち、観客を揺さぶる。
彼は現代社会の片隅に溜まる鬱屈や孤独、不満を凝縮した存在であり、SNSの匿名空間に漂う悪意の集合体のようでもある。
タゴサクの多面性が、観客に「理解したくないが、なぜか理解してしまう」という危うい感覚を残し、物語を単なる謎解きミステリーに終わらせない。
緻密に編み上げられた群像劇が生む“予測不能のうねり”
物語はスズキタゴサクと類家刑事との対峙が軸だが、そこに至るまでの構造は驚くほど複雑で、各キャラクターが濃密に物語へ絡み合う。
スズキの過去を追う等々力(染谷将太)、功名心を抱える矢吹(坂東龍汰)、現場に奔走する倖田(伊藤沙莉)、心の均衡を失っていく清宮(渡部篤郎)、焦りを隠せない伊勢(寛一郎)。
彼らは状況説明のための脇役ではなく、それぞれがタゴサクの言葉に反応し、自らの弱さや欲望を露わにして物語を押し動かす。
終盤に向けてその糸が急速に結ばれていき、観客は「このあと何が起きるのか」という予測不能の緊張に飲み込まれる。
その緻密な作りが、観客からの「展開が読めず最後まで面白い」という口コミを強固にしている。
佐藤二朗が“臨界点”へ到達した日。笑いの間が狂気へ転じる
佐藤二朗は、長く福田雄一作品でアドリブの怪物として親しまれてきた俳優だ。観客もまた、彼が現れればどこかユーモラスな空気が流れると期待してしまう。
しかし『爆弾』での彼は、そのイメージを根底から裏切る。
今回は台本通りのセリフを精密に積み重ね、語尾の揺れや呼吸の乱れまで演出下でコントロールされている。長回しのカットが続く中、彼のクローズアップは観客の視界を占領し、軽やかな喋りが冷たい狂気の震えへと反転する。
笑いの間として機能していたはずの癖が、今作では恐怖の律動として観客に迫るのだ。
この変貌ぶりが、タゴサクという人物に圧倒的な存在感を与え、物語そのものの温度を支配している。
佐藤二朗は、この作品で自らのキャリアの臨界点に到達したといっていい。
『国宝』と並び称される理由。原作の再現度と社会性の融合
同じく2025年を代表するヒット作『国宝』と比較されるのは、『爆弾』が原作ファンを納得させる緻密な描写と、現代社会の影をすくい上げるテーマ性を両立しているからだ。
物語は原作の骨格を丁寧に守りながら、匿名の悪意や組織の脆さといった現代的な問題を際立たせ、観客に“今”を生きる実感を突きつける。同時に、ライト層にとってはテンポよく進む“予測不能のサスペンス”として楽しめる構造になっている。
文芸映画としての精密さと、娯楽映画としての勢い。その両方を満たしている点こそが、映画ファンから「今年の本命」と呼ばれる理由だ。



