
アメリカ、イギリス、フランス。
映画『Black Box Diaries』は、世界中で喝采を浴びた。
第97回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門に日本人として初めてノミネートされ、社会的告発の象徴として称賛された。
しかし、その輝きの裏で、監督・伊藤詩織氏は自らの判断を「誤りだった」と認めた。
性暴力被害を訴えた当事者であり、同時にジャーナリストでもある彼女が、なぜ“無断撮影”という倫理的な境界を越えたのか。
そして、この作品がいまだ日本では公開されていないという現実が、どんな意味を持つのか。
無断撮影を認めた謝罪文「判断は誤りだった」
10月25日夜、伊藤詩織氏は自身の公式サイトに謝罪文を掲載した。
ドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』に登場するタクシー運転手の映像が、「本人の承諾を得ずに撮影・使用された」ものであったことを認めたのだ。
謝罪文によると、映像は「性暴力の証拠を探していた過程で撮影された」もので、半年以上にわたり本人への連絡を試みたが、つながらなかったという。
そのため「国際的に認められる合理的な連絡努力に基づいて使用した」と説明したが、最終的には「この判断は誤りだった」と明確に非を認めた。
「ご本人やご家族に多大なご不快な思いをおかけしました。心よりお詫び申し上げます」
静かな文面の中に、映像制作の根幹に関わる重い反省がにじむ。
世界で評価、国内で波紋。“賞レースの影”に潜む矛盾
映画は、2024年1月にサンダンス映画祭で初上映されたのち、50以上の映画祭で上映され、18の賞を受賞した。
米国アカデミー賞にもノミネートされ、日本人監督として史上初の快挙と話題になった。
しかし、その国際的評価とは裏腹に、倫理的な議論は広がっている。
SNSでは、
「被害を訴える立場の人が、他者の同意を無視するのは矛盾している」
「賞を取ってから謝罪しても遅い」
といった声が相次いだ。
作品は“真実を映す鏡”として高く評価されたが、その鏡の裏側には、もう一つの現実が映っていた。
日本で公開されない理由。沈黙が示す“社会の壁”
世界50カ国以上で上映されてきた『Black Box Diaries』。
だが、日本国内ではいまだ正式公開が実現していない。
理由の一つは、映像の権利やプライバシーをめぐる法的リスクだ。
タクシー運転手の無断撮影をはじめ、捜査官の音声、防犯カメラ映像、弁護士の音声など、複数の“許諾未確認素材”が含まれていたことが報じられている。
こうした映像を含むままでは、国内上映は「権利処理が完了していない」と判断されるのが現実だ。
もう一つの要因は、社会的空気である。
性暴力事件を扱う作品に対して、日本では依然として「被害者側にも問題があったのでは」といった偏見が根強い。
海外では「勇気ある告発」として評価されたが、国内では「論争を避けたい」「トラブルを恐れる」といった理由で、配給会社が慎重な姿勢を崩していない。
その結果、作品は世界では語られ、日本では封印された状態となっている。
それはまるで、日本社会の「沈黙の構造」を象徴しているかのようだ。
映像ジャーナリズムの倫理とは
謝罪文で伊藤氏が用いた「合理的な連絡努力」という言葉は、国際報道の現場で使われる概念だ。
本人と連絡が取れない場合でも、社会的利益が大きいと判断されれば、取材映像を使用することがある。
だが、今回のケースは「加害と被害」という極めてセンシティブな文脈にある。
被害当事者が制作者である場合、その判断がどこまで客観性を保てるのか。
倫理学者の間では、「合理的努力は“公共性の高い報道”に限られる」という見方が一般的であり、個人証言を扱うドキュメンタリーに適用するのは慎重であるべきだとされる。
真実を伝えることと、誰かの尊厳を守ること。
その二つをどう両立させるかという問いが、あらためて突きつけられた。
被害者であり、制作者でもあるという“二重の立場”
伊藤詩織氏は、自らを「監督であり、被害者でもある」と位置づける。
この“二重の立場”が、作品の真実性を支えた一方で、最も深い葛藤を生んだとも言える。
「真実を語ること」が、誰かのプライバシーを侵すことにつながるかもしれない。
その恐れと戦いながら、カメラを回す。
この映画は、被害を「記録」しながら、同時に「暴露」してしまう危うさを抱えていた。
静かな謝罪の先に。“声をあげる”という行為の重み
謝罪文が公開されたあとも、伊藤氏は公の場に姿を見せていない。
しかし、映画の公式Instagramには、海外映画祭での受賞報告や観客との写真が投稿され続けている。
世界では称賛が止まらない。
だが、日本の観客はいまだ、その映像を一度もスクリーンで目にしていない。
“声をあげる”ことが評価される世界で、
“声を上げた人”をめぐって沈黙が続く国。
『Black Box Diaries』が投げかける問いは、スクリーンの外に広がっている。



