
白い氷の上に立った瞬間、会場のざわめきがすっと遠のいた。
ミラノ・コルティナ冬季五輪。世界中の視線を浴びながら、アンバー・グレンは静かに息を整えた。照明がリンクを照らし、音楽が流れ出す。そのわずか数分の演技の裏で、彼女は誰にも見えない重圧を抱えていた。
「実は今、生理中なんです」
フリー終了後、フランスの『RMC Sport』のインタビューで明かされたその一言は、五輪の熱狂とは別の現実を浮かび上がらせた。
衝撃の13位発進、涙のキス・アンド・クライ
メダル候補として臨んだショートプログラム。冒頭のトリプルアクセルは成功した。しかし後半のジャンプでわずかな乱れが生じ、結果は13位。演技後、キス・アンド・クライで顔を覆い、涙をこぼす姿が世界に配信された。
多くの視聴者は、五輪特有の重圧をそこに見ただろう。だが実際には、身体の周期というもう一つの要素が重なっていた。
中2日で迎えたフリーでは、持ち味のダイナミックな滑りを取り戻し、自己ベスト147.52点を記録。順位を5位まで押し上げた。そのうえでの告白だった。
「本当に辛い。こういう衣装を着て、全世界の前でパフォーマンスをしなければならない時は特に。大変なのに、誰もそのことを話せない。それが怖い」
静かな言葉は、氷よりも冷たい沈黙を切り裂いた。
「なぜ知られてはいけないの?」伊代表の問い
同じ大会で声を上げたのは、イタリアのバイアスロン代表ドロテア・ウィーラーだ。独紙『Bild』によると、彼女も大会期間中に月経と重なっていたことを明かし、こう問いかけた。
「コンディションが100%ではないことを、なぜ知られてはいけないの?」
五輪は4年に一度。ピークを合わせてきた身体が、その瞬間に周期と重なることもある。それは偶然であり、避けきれない現実だ。
しかし、その事実を口にすること自体が“言い訳”と受け取られかねない空気が、スポーツ界には根強く残っている。
社会構造分析:なぜ“言い訳文化”とされるのか
なぜ、生理の話題は「言い訳」と結びつけられやすいのか。
背景には、スポーツが長く男性基準で設計されてきた歴史がある。競技日程、トレーニング理論、評価の物差し。その多くは月経周期という前提を持たない身体を基準に築かれてきた。
女性特有の身体変化は、構造の外側に置かれてきたのである。
さらに、スポーツ文化には「弱さを見せない美徳」がある。痛みを隠し、感情を抑え、結果のみで評価される世界。体調不良の説明でさえ、敗北の言い訳と解釈されやすい。
とりわけ女性の場合、「感情的」「不安定」といった偏見と結びつけられる歴史的背景もある。月経による変化を語れば、「だから女性は」と短絡的に一般化されるリスクがある。だからこそ沈黙が選ばれてきた。
しかし月経は特別な事情ではない。半数の人類が経験する生理現象だ。
それでも公言には勇気がいる。その事実こそ、ジェンダー構造の歪みを物語っている。
グレンとウィーラーの発言は、成績の弁明ではない。「常に100%であること」を前提とする評価社会に対し、「人間は常に100%ではない」という現実を突きつけたのである。
氷上の4分間だけが、すべてではない
五輪は祝祭だ。歓声と国旗、メダルの輝き。しかしその裏で、選手は日常の身体とともに戦っている。
月経による影響は個人差があり、月ごとにも変わる。医学的な対処法はあっても、完全な解決策は存在しない。日程は動かず、舞台は待ってくれない。
それでも彼女たちは立つ。
「それでも私たちはアスリートでいなければならない」
グレンの言葉は、弱さの告白ではなく、共有の呼びかけだ。
氷が削られ、照明が落ちても、問いは残る。
身体の違いを語ることは、なぜ“言い訳”になるのか。
ミラノ・コルティナ五輪が示したのは、メダルの色だけではない。スポーツ界が向き合うべき、もう一つの課題である。



