
NHK連続テレビ小説『あんぱん』の最終週「愛と勇気だけが友達さ」では、ついに『アンパンマン』のテレビアニメ化の場面が描かれた。実際に『それいけ!アンパンマン』(日本テレビ系)が放送を開始したのは1988年。
しかしそこに至るまでの道のりは、幾度となく企画が却下され、スポンサー問題や社会情勢の逆風に翻弄された苦難の連続だった。その裏には、やなせたかし本人の粘り強さと、妻・暢(のぶ)さんの揺るぎない支えがあった。SNSでも「暢さんが真のヒロイン」「夫婦二人三脚の物語」と共感の声が相次いでいる。
否定され続けた企画――「顔を食べさせるなんて気持ち悪い」
1980年代半ば、日本テレビの武井英彦プロデューサーは、息子の保育園で真っ黒になるまで読まれた『あんぱんまん』を目にし、アニメ化を企画した。しかし社内は冷笑的で、「絵がみすぼらしい」「顔をちぎって食べさせるなんて気持ち悪い」と否定の嵐。制作費も認められなかった。
やなせ自身も「アンパンマンの顔をちぎって与えることを、気持ち悪いという人は大勢いた」と語っている。SNSでは「大人の感覚と子どもの感覚は違う」「理解者が少ない中で信じた人がいたのがすごい」との声が多く、時代とのズレを改めて実感させる。
NHKの挑戦と敗退――『三銃士』とのコンペの行方
日テレより前に、NHKも『アンパンマン』の本格アニメ化を検討していた。1979年には『おはなしえほん』で短編を放送済みで、シリーズ化を狙っていたが、コンペで『三銃士』に敗れた。やなせは後年「体調を崩していて、無理に仕事を増やしたくなかった」と自伝『人生なんて夢だけど』に書き残している。
結果的に『アニメ三銃士』(1987年放送)は成功を収め、NHKのアニメ路線を切り開いた。SNSでは「アンパンマンと三銃士が競っていたなんて」「歴史の選択肢を見た気がする」と驚きのコメントが目立った。
時代の逆風――「幼児向けアニメは売れない」
東京ムービー(現トムス)の山崎敬之氏も『アンパンマン』を推したが、当時のアニメ業界はティーン市場全盛期だった。『宇宙戦艦ヤマト』『ガンダム』以降、『うる星やつら』『マクロス』が支持を集め、幼児向け作品は「売れない」とされた。山崎氏は「企画を持ち込んだら『狙いはもっと上の年齢層でなくちゃ』と突き返された」と証言。
やなせも「アンパンマンは幼稚すぎて、誰も見向きもしなかった」と語っている。だがこの「幼稚さ」こそが、子どもにとっての温もりであり、長寿番組を生む土壌となった。SNSでは「時代に逆らったからこそ成功した」「異端児が国民的存在に」といった声が相次ぐ。
スポンサー撤退の衝撃――「ばいきんまん」と事件の影
日テレで企画が進むなか、大手製パン会社がスポンサー候補に挙がったが、社長は「ばいきんまん」の存在に激怒し撤退した。背景には「グリコ・森永事件」があった。模倣犯から「バイキンを入れる」との脅迫状が届いていた時期であり、「食品にバイキン」という言葉は業界にとって致命的だったのだ。
やなせは「ばいきんまんは必要悪だ。正義があるから悪がある」と創作の理念を貫いたが、社会の空気はそれを許さなかった。SNSでは「事件が作品に影を落としていたとは」「ばいきんまん誕生の裏に社会不安があったなんて」と衝撃が広がっている。
執念と信念――多くの人の支えで実現した国民的アニメ
それでも『アンパンマン』は実現した。東京ムービーの加藤俊三プロデューサーが自費でパイロットフィルムを制作し、日テレ音楽やバップが出資を決断。日テレ版権部の斎藤課長が社内を奔走して企画を成立させた。
やなせは「アンパンマンはぼくの遅すぎたヒーローだ」と語り、69歳で始まったテレビアニメを人生の集大成とした。SNSでも「裏方の努力がなければ存在しなかった」「愛と勇気は現実の努力が形になったもの」と称賛の声が多い。
補章――暢さんという伴走者の存在
そして忘れてはならないのが、妻・暢(のぶ)さんの存在だ。やなせは長く売れない漫画家時代を過ごし、生活は決して豊かではなかった。その間、暢さんは出版社での校正や事務の仕事を請け負い、生活を支え続けた。家計を守りながらも、「あなたの描くアンパンマンは子どもを幸せにする」と夫を励まし続けたという。
やなせは「妻がいなければアンパンマンは生まれなかった」と断言している。暢さんは作品に直接口を出すことは少なかったが、時折「アンパンマンは子どもにとってやさしい存在でなければならない」と助言し、キャラクター像を形作るヒントを与えた。
SNSでも「暢さんの支えが本当のヒーロー」「アンパンマンの愛と勇気は夫婦の愛そのもの」と共感が広がり、朝ドラ『あんぱん』の描写がより深く受け止められている。
結び
『アンパンマン』がアニメ化されるまでには、否定の嵐、業界の逆風、スポンサー撤退、社会事件といった幾重もの障害があった。だが、それを乗り越えたのは、信念を持って支え続けた人々、そして何よりも妻・暢さんの存在だった。
「愛と勇気だけが友達さ」という歌詞は、単なる子どもの歌ではない。夫婦の絆と仲間たちの執念が結実した現実のメッセージそのものだったのである。