
外国人に対して「当分の間」生活保護を認めるという戦後の暫定措置が、70年以上経った現在も続けられているこの制度の見直しを求めた竹上裕子衆院議員(日本保守党)に対して、政府は6月13日、実質的なゼロ回答を示した。
SNSではフィフィ氏や世良公則氏らの投稿をきっかけに、「自国民には厳しく、外国人には甘い」との憤りが広がっている。背景には、法的根拠の曖昧さと、日本型行政の“棚上げ文化”が存在する。
「国民限定」の法律に、通知で抜け穴 外国人にだけ続く“例外措置”
1950年に制定された生活保護法は、第1条でその対象を「生活に困窮する国民」と明確に限定している。だが1954年、厚生省社会局長名で「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」という通知が発出され、人道的配慮として「当分の間」行政措置で支給を行う運用が始まった。
この「当分の間」が、憲法や法律の規定を実質的に骨抜きにしてきた。法に基づく保護ではなく、あくまで“サービス”としての生活保護が、70年を経て拡大の一途をたどっている。
日本保守党の竹上裕子衆院議員(比例東海ブロック)は6月上旬、この状況を是正すべく政府に質問主意書を提出。外国人が生活保護を申請した際には、所属する国の領事館を通じて支援の可否を確認することや、外国人専用の期限付き生活困窮者対策への切り替えを提案した。
しかし政府は答弁書で「制度を見直す状況にはない」「実態は把握していない」と一貫して回答を回避。SNSでは、「なぜ日本人だけ扶養照会され、外国人はされないのか」といった怒りの声が相次いでいる。
最高裁が「違憲」と断じたのに、なぜ行政は止めないのか
この外国人生活保護をめぐっては、2014年に最高裁判所が「外国人に生活保護を受ける法的権利はない」との判断を下している(外国人永住者による生活保護訴訟の判決)。つまり、生活保護法の枠組みに外国人は含まれず、支給はあくまで任意の行政措置にすぎないというのが司法の最終判断である。
だが現実には、この“違憲的状態”とも言える運用が放置され、むしろ行政の現場では制度として固定化されてきた。竹上氏が主張するように、制度の持続性や公平性を考えれば、外国人への対応こそ、最も慎重に検証されるべき領域のはずだ。
「そんなんだから食い物にされるんだよ」
――タレントのフィフィ氏は、産経新聞の報道を引用してこう批判した。生活保護申請者の親族に扶養照会を行う日本人に比して、外国人にはほぼ無審査に近い扱いがなされている現状に、多くの国民が不信感を抱いている。
さらに、SNSでは制度の二重基準を指摘する声も。
「なんで日本人の生活保護申請者だけ親戚に『この人養えませんか』みたいな電話するの?するんなら外国人にも同じようにしなさいよ。情報が提供されないなら認定するな。そもそも外国人生活保護は最高裁で違憲判決出てるのにそっちの方が甘いとかおかしいでしょうが」
また、俳優の世良公則氏も、「自国民が困窮しているのに外国人に厚遇。こんな国はない。異常すぎる」との見解をXに投稿した。
「当分の間」は他にもあった 行政の“棚上げ文化”が制度をゆがめる
「当分の間」という文言は、行政措置の中でしばしば使われるが、それが数十年にわたって改訂されない例は極めて珍しい。例えば、戦後に設けられた在日韓国・朝鮮人に対する特別永住資格制度も、「当分の間」在留を許可するとされた経緯があるが、これもその後70年以上にわたり見直されていない。
本来、暫定措置は問題が収束し次第、段階的に縮小・廃止されるべきだ。しかし現実の行政では、政治的・国際的な配慮や有権者の関心の低さが重なり、「棚上げ」のまま制度だけが延命するケースが少なくない。
この「当分の間」が、結果として制度的な優遇・不公平を生み出す温床となっているのだ。
SNS上では、俳優の世良公則氏も「自国民が困窮しているのに外国人に厚遇。こんな国はない」と疑問を呈し、自民党の姿勢を批判する声も広がっている。
竹上氏は一連の答弁を受けてこう語った。
「外国人を排除するわけではないが、日本人には扶養照会を課し、外国人は何も問われないという制度運用は、明らかに国民感情に反する。『当分の間』が未だ続くことこそ、戦後が終わっていない証拠だ」。