
「これからずっと、こんなにも孤独に食事をしなければならないの?」——がんを経験した時、苦しみは病気そのものだけではない。食べたいのに食べられない、自分だけ別の食事、そして何より大切な人と“同じ食卓”を囲めないことの切なさ。そんな心の痛みに寄り添うために、元看護師の柴田敦巨さんは立ち上がった。
自身のがん治療経験から生まれた“やさしいカトラリー”「iisazy」。それは、ただの道具ではない。食べるよろこびと、つながりを取り戻すための、小さな希望のかたちだ。
※「ピアメイド」は猫舌堂が造ったことばです。
がん治療を経験して気づいた「食べること」の意味
自分ががんと診断された時に、人は何を思うのだろうか。毎日自分の将来のことを心配し、不安に苛まれるようになるのだろうか。
「実際に自分ががんを告知された時は、なってしまったものはしかたないと思いました。それより、子供のこと・仕事のことなど周囲の人のことや、日々の生活のことの方が気がかりでした。がんになっても日常は続いていくのです」と猫舌堂の柴田敦巨(あつこ)は人懐っこい笑顔で答えてくれた。
猫舌堂は「ピアメイド(=同じ悩み・課題をもつ仲間と一緒にデザイン)」を掲げ、誰もが使いやすく使いたくなるスプーンやフォークなどのカトラリー商品「iisazy(イイサジー)」などの企画・販売と、コミュニティの運営を行なっている。
厚生労働省の発表によると、全国のがん罹患者の内、食事に関わる部位の罹患者は男性では22%。女性では13.7%を占める(2020年の統計。食道、胃、膵臓がんの罹患者の合計数)。そこに口腔内や顎、舌などの部位に発生するがんを含めれば、その数はさらに多くなる。がんを患うことで「食べること」に支障が生まれる可能性は非常に高いのだ。
今回お話を伺った柴田さんもがんになってそんな悩みを持つことになった一人だ。
「私が看護師として病院で勤務をしていた2014年に左耳下腺腺様嚢胞(せんようのうほう)がんと診断されました。耳下腺とは耳の下あたりにある唾液を分泌する器官です。手術で左耳下腺を摘出した結果、手術前に比べて唾液の分泌量が半分ほどになってしまい、口が乾燥してパサパサしたものが食べにくくなり、飲み込みにくくなってしまいました。
また左顔面神経麻痺が残り、口を大きく開きづらくなってしまいました。食事をする際に、食べ物が口の周りについたり、食べこぼすことが気になり、人前で食事をすることができなくなってしまいました」

抗がん剤治療では、味覚障害や食欲不振といった副作用がよく知られている。しかし実際にはそれだけでなく、ふだんは無意識にできていた「食べる」という行為が難しくなることも少なくないという。
そういった困難を持った人は、料理を細かくすり潰して口に入る大きさにしたり、とろみをつけたものにするなどの工夫をして食事するのだが、そうするとどうしても他の人とは別の、特別な料理にせざるをえなくなり、人と会食したり外食をすることに抵抗を感じるようになる。また周囲の人もそれを気にして食事に誘いづらくなり、徐々に距離をとられるようになってしまうという。
「つらかったのは、食べられないことではなくて、人と一緒に食べられなくなったことでした。食べるよろこびは何を食べたかということよりも、誰とどんな時間を過ごしたかということの方が大切だということに、病気を経験して初めて気がつきました」
またこういった悩みを打ち明けられる場所が少ないことにも気がついた。
「気軽にふらっと立ち寄れて、話すことで自らの悩みに気づき、自らの力で解決方法を見つける。そんな場所が必要ではないかと感じました。病院には相談支援室などはありますが、そもそも何を相談していいのか分からないときは、そこに足を向けにくいと感じました。だから何気なく立ち寄れて気兼ねなく話せて、食事もできるカフェのような場所を作りたいと思いました」
柴田さんはその想いから、関西電力株式会社の社内起業チャレンジに応募し、それが採択され、半年間の実証実験を経て2020年に株式会社猫舌堂を設立した。
「24年間看護師として働いてきましたが、自分ががん治療を経験して初めて気づいたことがありました。それは、伝えなければ伝わらない。だからまずは伝えることからチャレンジしよう。と勇気を出して1歩踏み出しました」

iisazyで感じる人とのつながり
―改めて本日はよろしくお願いします。先ほど起業の経緯についてお伺いしましたが、ではなぜカトラリーを商品として扱うことを考えられたのでしょうか?
柴田 当初のプランではがんを経験した方やご家族などが気軽にふらっと立ち寄れて食事もできるカフェを開設し、そこでオリジナル商品を販売することでした。カトラリーはオリジナル商品の一つです。口が大きく開きにくかったり、かみにくかったりすると、通常で使われているスプーンだと大きすぎて使いづらい。口に引っかかり食べこぼしたり口の周りが汚れてしまいます。食欲がない時は一口だけでも一苦労。私も色々なスプーンを試してみたのですが、なかなかちょうど良いものに巡り合えませんでした。また同じ病気の仲間たちも、私と同じ悩みを抱えていました。カトラリー1つ工夫するだけで解消できることもあるのに。そこで、「なければ作っちゃえ。」と思い、企画販売を行うことになりました。
―具体的にはどういう工夫がなされた商品なのでしょうか。
柴田 口を大きく開けられなくてもスッと口の中に入る幅と大きさにしています。スプーンは先に向かってフラットな形にしているので口の中に食べ物を入れた後、唇に引っかからずスッと引き抜くことができます。またスプーンの底を使って食べ物をつぶすこともできます。 そして、フォークは先が丸みを帯びているので、デリケートな口腔内でも安心して使うことができ、麺類は適量を巻き取ることができます。また、先端を使って肉などの塊をほぐすこともできます。

―がんを患った方以外にも多くの利用者がいると聞きます。
柴田 離乳食からご高齢の方、そして介護まで幅広くご愛用いただいています。例えば、食の細いお子様も「iisazy」だとパクパク食べてくれたとのお声もいただいています。
食事に支障があると外食することに抵抗を感じてしまいがちですが、「iisazy」があることで再び外食を楽しむことができるようになったというお声や、『iisazyを使っていると一人じゃないと感じられる』と、心理的な支えになっているというお声もいただいています。

―皆と食事をする、というのはあまりにありきたりで普通過ぎて気づかないことですが、それができなくなると疎外感が生まれてしまう。
柴田 食べるよろこびは、社会とのつながりを感じてこそだと思います。「iisazy」がそのきっかけの1つになれたらうれしいです。
「猫舌さん」との出逢い
―御社のブランド名である「猫舌堂」の由来についてお伺いします。
柴田 私と同じ耳下腺腺様嚢胞がんを経験した方のブログを通じて「猫舌さん」と知り合いました。彼女は舌下腺の腺様囊胞がんで、手術で顎の骨や舌のほとんどを切除されていました。手術の影響で口の中がとてもデリケートな状態ですが「舌はないけど猫舌なの」と周りを笑わせ、自らのニックネームを「猫舌」とするユニークな方です。2016年に初めて会ったときは、同年齢ということもあり、すぐに意気投合して、次の日には一緒にお出かけもして、色々お話ししました。
リアルに会って交流していく中で、お互いが使っているカトラリーについての悩みも共通していることがわかりました。 起業チャレンジに応募するときも、一緒にアイデアを考えてくれたことから、社名は彼女のニックネームからいただいて「猫舌堂」となりました。

―猫舌さんは御社のYouTubeチャンネルでも登場されていますね
(https://www.youtube.com/@_nekojitadou4703/)。残念ながら2022年にお亡くなりになられましたが、どういった方だったのでしょうか。
柴田 彼女との思い出は、お互いに食べることが大好きで、色々なものを食べに行きました。特にカレーは私たちのソウルフードというくらいよく食べました。カレーはとろみがあるので嚥下障害があっても食べやすいのです。しかも野菜や肉も入っているので栄養も摂れる。
―食べるのがお好きな方だった。
柴田 私もそうですが、病気になって食べられない経験をしたからこそ、食べられることのありがたさをより強く感じられるようになり、一緒に食べられるそのひと時を大切に思えるようになりました。
※猫舌さんこと荒井里奈さんの闘病記『舌はないけど がんと生きる』が中日新聞社より発売されており、そこから故人の明るく活発な人柄を感じ取ることができる。

いつまでも傍にある存在に
―今後のビジョンについてお伺いします。
柴田 iisazyのような「ピアメイド」があたりまえに身近にある世の中になったらいいなと思っています。例えば病気や加齢などで今までのような生活ができなくなったとしても、iisazyのような「ピアメイド」な商品やサービスであふれる社会であれば、慌てなくてもよい。「ピアメイド」ってユニバーサルデザインなんですよね。
そのために、同じ想いの仲間や企業などと一緒に、つながりを力としながら歩んでいきます。
―昨年(23年7月)に株式会社michitekuと合併し猫舌堂ブランドとして事業継続しています。
柴田 事業を続けていくための判断でした。ソーシャルビジネスを数年でインパクトのある成長に導くのはとても困難だと感じています。でも継続しなければ必要とされる人に届けることができない。そうした中、michitekuとご縁をいただきました。michitekuも同じ課題をもつ仲間です。これも「ピアメイド」ですね。これからもご縁を大切にし、力にしながら、なぜこの事業をしているのかを振り返り、問い続けながら仲間たちと一緒にすすんでいきます。
―本日はありがとうございました。
