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ヒカル「タモリは面白くない」炎上の本質 “お前ら大したことない”発言で露呈したテレビへの憧れ?

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ヒカル タモリ
DALLーEで作成

「タモリは全く面白くない」。

YouTuber・ヒカルのその発言は、芸人たちを巻き込みながら大炎上へ発展した。さらに「お前ら全然大したことねぇ」と“取り巻き芸人”まで挑発したことで、論争は「芸人vsYouTuber」の構図へ拡大している。

だが、この騒動の本質は単なる暴言ではない。そこには、テレビとYouTubeの価値観の衝突、そして“誰に認められたいのか”という現代特有の承認欲求が透けて見える。


 

 

“何気ない一言”が、日本中を巻き込む論争へ変わった瞬間

騒動の発端は、4月20日に公開されたYouTube動画だった。

軽快なトークが続く中、ヒカルはごく自然な口調で、「タモリさんって全く面白くないと思ってた」と語った。その場には“カジサック”ことキングコング梶原雄太も同席しており、「俺は正直そんなですよ」と同調する。動画内では一つの雑談に過ぎなかったその発言は、切り抜き動画によってSNSへ拡散され、瞬く間に大きな火種となった。

タモリという存在は、日本のテレビ史そのものと言っていい。「笑っていいとも!」を32年間続け、昼のテレビ文化を作り上げた人物であり、深夜ラジオ、空耳アワー、独特の脱力感ある司会スタイルなど、その影響は計り知れない。だからこそ、「面白くない」という言葉に、多くの人が強く反応した。

ただ興味深いのは、最初の段階では「好みの問題では」という意見も少なくなかったことだ。

実際、“面白い・面白くない”は本来、極めて個人的な感覚である。ある人にとって爆笑ものでも、別の人には理解できない。それは音楽や映画と同じだ。だから当初は、「タモリが分からない世代がいても仕方ない」という冷静な声も確かに存在していた。

しかし、この論争はそこで終わらなかった。

 

タモリの笑いは、なぜ“分からない人”がいるのか

そもそも、タモリの笑いは極めて特殊だ。

大声で押し切るタイプではない。激しいツッコミでもない。むしろ逆で、沈黙、間、雑談、空気感、そして知識や文脈の積み重ねによって成立する“温度の低い笑い”である。

たとえば、赤塚不二夫の弔辞で見せた“白紙の弔辞”は、その象徴だろう。紙には何も書かれていない。しかし、静かに語られる言葉と間によって、会場は涙と笑いに包まれた。あれは単純なギャグではなく、「空気を操る芸」に近い。

だが、こうした笑いは、短尺動画に慣れた世代には伝わりにくい。

TikTokやYouTubeショートの時代は、“最初の数秒で笑わせる”ことが求められる。テンポは速く、刺激は強く、説明は短い。そうした文化の中で育った世代にとって、タモリの笑いは“静かすぎる”のだ。

つまり、「タモリが面白くない」という感覚自体は、決して異常ではない。

問題は、その感覚をどう表現したかだった。

 

「大したことない芸人」が決定的に空気を変えた

炎上が本格化したのは、5月4日に公開された別の動画だった。

芸人たちからの反論について触れたヒカルは、「大御所は何も言ってこない。ただ、ちょっと下にいる本当に大したことないやつら」と発言し、さらに「お前ら全然大したことねぇだろ」とカメラ目線で挑発した。

この瞬間、世間の空気が変わった。

それまでは、「好みを語っただけ」という擁護も成立していた。しかし、“大したことない”という言葉が入ったことで、多くの人はそこに「批評」ではなく「見下し」を感じたのである。

芸人の世界には、相手を理解できなくても、積み重ねてきた歴史や芸に対して一定の敬意を払う文化がある。だからこそ、霜降り明星の粗品は「“おもんない”って言うのはナンセンス」と語ったし、多くの芸人たちも違和感を示した。

それは単に“タモリを守りたい”という話ではない。

“笑い”というものを、優劣や格付けの道具にすることへの拒否感だった。

 

なぜヒカルは炎上を恐れないのか

ただ、ヒカル側にも極めて現代的な合理性がある。

本人はXで、「話題にされた時点で勝ち」「自動集客装置が完成している」と語っている。つまり、この論争自体がコンテンツとして成立しているのだ。

誰かが怒る。
SNSで拡散される。
ニュースになる。
動画が再生される。

その循環が、巨大な利益を生む。

かつてテレビ時代のスターは、「嫌われないこと」が重要だった。しかし、YouTube時代は違う。熱狂的に支持するファンが一定数いれば成立する。

だから、敵を作るほど強い。

過激な言葉ほど拡散される。

そして視聴者側も、「嫌い」と言いながら動画を見に行き、結果的に再生数へ貢献してしまう。

炎上を止められないのではない。炎上そのものが“ビジネスモデル”として成立してしまっているのである。

 

テレビとYouTubeは、そもそも“別の競技”だった

今回の論争で浮かび上がったのは、テレビ芸人とYouTuberが同じ土俵で比較されていることへの違和感だ。

しかし、本来この二つはまったく別の競技である。

テレビ芸人は、生放送の空気、観客の温度、共演者との呼吸、CM前後の流れまで含めて笑いを作る。編集できない現場で、瞬間的に空気を支配する能力が求められる。

一方、YouTubeは編集ができる。不要部分を削り、テロップを加え、サムネイルで強調し、“完成品”として届けられる。

どちらが上という話ではない。

ただ、求められる能力が違う。

ナインティナイン岡村隆史が、「YouTuberはしゃべれるけど、話芸とは違う」と語ったのも、その差を指摘したものだった。

しかしSNSでは、その境界が曖昧になる。

再生数が多い人が強いのか。
芸歴が長い人が強いのか。

その価値観が真正面から衝突した結果が、今回の“タモリ論争”だった。

 

SNS時代が変えた「面白い」の価値観

今回の“タモリ論争”がここまで大きくなった背景には、単なる芸能人同士の対立ではなく、“時代の変化”がある。

かつてテレビが絶対的だった時代、「面白い」を決めるのはテレビだった。全国の人が同じ番組を見て、同じ芸人で笑い、タモリはその中心にいた存在だった。

しかし、YouTubeやTikTok、SNSの普及によって、その構造は大きく変わった。

今は、“自分が好きなものだけを見る時代”だ。

テレビのように幅広い世代へ向けた笑いではなく、強い言葉や過激な発言の方が拡散されやすい。静かな間や空気感より、短く分かりやすい刺激が求められるようになった。

つまり、タモリの笑いと、ヒカル的な発信は、そもそも育った時代もルールも違うのである。

さらにSNS時代では、「嫌われること」すら武器になる。炎上するほど注目され、再生され、収益へ変わる構造があるからだ。

だから今回の騒動は、単なる“ヒカルvsタモリ”では終わらない。

それは、“みんなが同じテレビを見ていた時代”と、“それぞれが別の世界を見ている時代”の衝突でもある。

 

ヒカルは、本当にテレビを超えたいのか

興味深いのは、ヒカルが“大御所は何も言わない”と挑発していた一方で、岡村隆史に話題にされた際には素直に喜んでいたことだ。

そこには、ある種の矛盾が見える。

テレビを否定しながら、テレビに認められたい。

芸人を批判しながら、芸人に反応してほしい。

実はこれは、多くのYouTuberに共通する感覚かもしれない。

なぜなら、日本のエンタメ界において、いまだテレビは巨大な権威だからだ。

どれだけYouTubeで成功しても、「笑っていいとも!」や「27時間テレビ」、「M-1」のような“国民的記憶”は簡単には超えられない。

だからこそ、テレビ側から名前を出されること自体が、“認められた”という感覚につながる。

今回の騒動の裏には、そんな複雑な承認欲求も透けて見える。

 

「面白い」を絶対視する社会の危うさ

一方で、この騒動はヒカル側だけの問題でもない。

SNSでは、「タモリを理解できないのは教養がない」といった極端な擁護も目立った。しかし、それもまた危うい。

笑いは本来、自由なものだからだ。

シュールを笑う人もいれば、勢いを笑う人もいる。毒舌が好きな人もいれば、静かな会話に心地よさを感じる人もいる。

問題なのは、“自分の笑い”を絶対視してしまうことだ。

今のSNS社会は、「違う価値観」を受け止めるより、“敵”を作って叩く方向へ加速しやすい。

だから、この騒動は単なる芸能ニュースでは終わらない。

そこには、「人はなぜ、自分の価値観を正義だと思い込むのか」という、現代社会そのものの問題が浮かび上がっているのである。

 

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ライター:

Webライター。きれいごとだけでは済まない現実を、少し距離を置いて綴っています。

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