「上田兄弟」の時代が完全に幕。残された功罪と、党の行く末

「理論の巨人」と呼ばれた不破哲三(本名・上田建二郎)氏が95歳で世を去った。2025年の暮れ、一つの時代が完全に幕を下ろしたと言えるだろう。
不破氏の足跡を振り返る時、我々は彼が「物理学者」であったという事実、そして「上田耕一郎」という稀代の政治家を兄に持ったという運命に着目しなければならない。東大理学部で物理学を修めた彼にとって、政治とは情念のぶつかり合いではなく、解析し、修正し、解を導き出す「科学(サイエンス)」であった。
「カミソリ」と呼ばれた男の国会論戦
不破氏の名を世に知らしめたのは、その圧倒的な国会論戦力である。かつての共産党議員に見られた、大声でイデオロギーを叫ぶスタイルとは一線を画した。彼は膨大な資料を読み込み、相手の矛盾を理詰めで追い詰める「データ重視」の手法を確立した。その切れ味の鋭さから、永田町では「カミソリ不破」と恐れられた。
特筆すべきは、1980年代の中曽根康弘首相(当時)との論戦だ。改憲や防衛力増強を掲げる中曽根氏に対し、不破氏は真正面から挑んだ。二人のやり取りは、イデオロギーこそ対極にあったが、古典や歴史への深い教養を背景にした、ある種の知的な緊張感と敬意が漂っていた。
「あなたとは立場は違うが、勉強量には敬意を表する」。かつて保守政治家の重鎮にそう言わしめた不破氏の論戦スタイルは、野党が「批判だけでなく提案を」と求められる現代政治のスタイルの嚆矢(こうし)であったとも言える。
陽の耕一郎、陰の哲三 「上田兄弟」の絆
不破氏を語る上で欠かせないのが、実兄であり元党副委員長の故・上田耕一郎氏の存在だ。「上田兄弟」として知られた二人は、性格が正反対だった。兄・耕一郎氏は豪快で人懐っこく、酒を愛し、他党の議員とも広く交流する「陽」の政治家。対して弟・不破氏は、冷静沈着、緻密でストイックな「陰」の理論家だった。
二人は長く同じ団地(多摩永山など)の別の棟に住み、公私にわたり党の未来を議論し続けたという。宮本顕治氏という絶対的なカリスマが君臨した時代、党の人間的な顔を兄が担い、理論的な骨格を弟が支える。この「兄弟タッグ」こそが、昭和から平成にかけての共産党を支えたエンジンの正体だった。2008年に兄が鬼籍に入って以降、不破氏が背負った孤独と重圧はいかばかりだったか。
党のサバイバル戦略と「普通の政党」への脱皮
不破氏の最大の政治的功績は、ソ連崩壊後の共産主義への逆風の中で、日本共産党を「生き残らせた」ことにある。彼は物理学者が実験結果に合わせて仮説を修正するように、党の路線を修正した。
特に2000年の規約改定と2004年の綱領改定は、不破氏の真骨頂だった。「前衛政党」や「社会主義革命」といった用語を削ぎ落とし、自衛隊と天皇制について「当面容認」というウルトラC級の論理を展開した。これは、理念を捨てたのではなく、「革命(改革)への段階的到達」という理論武装によって、現実政治との矛盾を解消しようとする高度な知的アクロバットだった。
民主集中制の堅持と「党勢の停滞」
一方で、不破氏の「罪」、あるいは限界もまた明確である。彼はソフトな語り口と洗練された理論で党のイメージを変えたが、党運営の根幹である「民主集中制」という鉄の規律には手を付けなかった。国会でのあの鮮やかな論戦も、党内論議においては「不破理論」という絶対的な正解として機能し、異論を挟む余地を狭めてしまった側面は否定できない。
また、彼の主導した「柔軟路線」は、結果として無党派層の爆発的な支持には繋がらず、党勢の長期的な漸減傾向を食い止められなかった。2024年の党大会で彼が名誉役員へと退いた際、党内からは「不破時代」の総括と刷新を求める声が上がっていたのも事実だ。
さらに、彼の贅沢ぶりも世間からは批判の対象として揶揄されてきた。神奈川県の丹沢(津久井湖近く)に所有する、広大な敷地(約1000坪)を持つ豪華な山荘(隠居所)に暮らし、党幹部の贅沢な生活ぶりを示すものとして言われてきたのだ。
「科学者」が去った後の羅針盤
不破氏は、マルクス主義を教条的なドグマから解放し、日本の現実に適応させようと腐心した。兄・耕一郎氏と共に歩んだその道程は、日本の左派勢力が現実政治とどう向き合うかの苦闘の歴史そのものである。
中曽根氏と堂々と渡り合ったあの知的な論戦も、兄と酌み交わしたであろう政治談議も、もう戻らない。「不破哲三」という巨大な理論的支柱(アンカー)を失った日本共産党は、これからどこへ向かうのか。2025年の今、その答えはまだ出ていない。確かなのは、もう「不破理論」に頼って解を導き出すことはできない、ということだ。



