
午前9時30分、静まり返るルーブル美術館の外壁に黄色い作業ベストの男たちが現れた。リフトを使って「アポロン・ギャラリー」へと上昇し、ガラスを割って侵入──奪取まで、わずか7分。盗まれたのは、ナポレオン皇妃ゆかりの宝飾品8点、総額8,800万ユーロ(約155億円)。フランス当局は事件から6日後、容疑者2人を拘束したが、残る2人と盗品の行方は依然不明だ。“内通者”の存在を巡る報道も浮上し、ルーブルの威信をかけた捜査は続いている。
事件の骨子:8,800万ユーロの「7分」
10月19日、パリ中心部の早朝。観光客の足音もまだまばらなルーブル美術館に、黄色い作業ベストを着た4人の男たちが姿を現した。外壁に設置された高所作業リフトがゆっくりと上昇する。
目的地は、ナポレオンゆかりの宝飾品を収める「アポロン・ギャラリー」。
午前9時半すぎ、静寂を破るガラスの破壊音。男たちはわずか数分で展示ケースをこじ開け、王冠やネックレスを奪い去った。
逃走までに要した時間、約7分。
犯行グループが残したのは、粉々になった窓ガラス。そして、8,800万ユーロ、日本円にしておよそ155億円の損失だった。
ギャラリーの警報は作動し、警備員5人が即座に現場へ向かった。しかし、彼らが到着した時には、すでに犯人の姿はなかった。負傷者は出なかったものの、ルーブルの威信を揺るがす事件となった。
手口の全体像と“8点”の内訳
盗まれたのは計8点。いずれもフランス王室や皇室の宝飾品である。
ナポレオン1世が妻マリー・ルイーズ皇后に贈ったエメラルドのネックレスとイヤリング、ウジェニー皇后のティアラとブローチ、マリー・アメリー王妃やオルタンス王妃が着けたサファイアの装飾品など、いずれも歴史的・文化的価値を併せ持つ一点物だ。
犯行は周到に計画されていた。男たちは館内の工事を装い、出入り口の監視カメラを避けるように動線を設定していたという。展示室は改修区域に隣接しており、外壁にはちょうど足場が組まれていた。警報が鳴ってから逃走までの時間は“7分”。まるでリハーサルを重ねたかのような正確さだった。
2人拘束の内実 空港と郊外で同時進行
事件から6日後の10月25日夜(現地時間)。フランス警察は同時に2人の容疑者を拘束した。
1人はシャルル・ド・ゴール空港で、アルジェリア行きの国際便に搭乗しようとしていた。もう1人はパリ北部のセーヌ=サン=ドニで身柄を確保。いずれも30代で、窃盗の前科があった。
捜査は、100人規模の特別班が動いていたという。パリの警察当局は、現場に残された衣類や工具などからDNAと指紋を検出。それをもとに過去の犯罪データベースを照合した結果、2人の身元が浮上した。
“泳がせていた”という報道もあるが、実際は空港側の監視網で出国直前に動きを察知した可能性が高い。
残る2人の行方は今も追跡中だ。
法科学的証拠150点超が指し示すもの
検察当局によれば、押収・分析された物証は150点を超える。
その中には、現場で使用された電動工具やガラス片、通信履歴、そして監視カメラの断片映像も含まれているという。
警察関係者は「科学捜査がすべてを動かした」と語る。
ルーブルという巨大建造物の中で、指紋ひとつを手掛かりに容疑者を絞り込む作業は容易ではなかった。
分析の結果、2人が犯行直後に使ったとみられる車両の痕跡も検出されており、そこから逃走経路をたどった捜査官が空港と郊外の拘束劇へとつなげた。
何が戻ったのか? 回収1点、依然“未回収”が多数
盗まれた8点のうち、唯一戻ったのはウジェニー皇后のティアラ。
犯人グループが逃走の際、現場付近に落としていったとされる。
警察はこれを手掛かりに分析を進めているが、残る7点の行方はいまだに分かっていない。
専門家は「この種の宝飾品は分解しても価値が下がる」と指摘する。
宝石をバラ売りにすれば国際市場で足がつくため、むしろ換金が難しい。
それでも、既に国外へ流出した可能性は否定できない。
バラバラにされる前に見つけ出せるか。それが、捜査のタイムリミットでもある。
“内通者”はいたのか? 報道と公式発表の差
事件発生から数日後、英テレグラフ紙が「館内警備員が窃盗犯と接触していた」と報じた。
フランス当局が、警備員の携帯端末から容疑者とみられる人物との通信記録を発見したというのだ。
一方で、パリ検察は「内通に関する捜査は進行中」と述べるにとどめ、公式に認定はしていない。
もし内部情報の提供があったとすれば、犯人たちが“午前9時30分”という時間を選び、警備員が少ないタイミングを狙えた理由も説明がつく。
ルーブルの威信を守るため、捜査当局は慎重に発表を見極めている。
“協力者”の存在が事実なら、事件は単なる窃盗ではなく、国家機関の信頼を揺るがすスキャンダルへと発展するだろう。
地下26mへの移送が意味すること
ルーブル美術館は事件から3日後の10月22日に再開した。
ただし、アポロン・ギャラリーは依然として閉鎖されたままだ。
そして同じ週、警察特殊部隊の護衛を伴い、館内の一部宝飾品が近隣のフランス中央銀行へと移送された。
地下26メートル、金保有量の約9割が眠る巨大な金庫。そこが、世界的文化財の新たな避難場所となった。
文化相ラシダ・ダティは「改修プロジェクトには警備マスタープランが含まれている」と語り、2031年までに新型監視システムとAIカメラを導入する方針を明らかにした。
マクロン政権による美術館の改修費は最大9億ドル規模。
歴史と観光の象徴であるルーブルが、同時に“最先端の要塞”に生まれ変わろうとしている。
数分を縮める技術と運用、そして透明性
この事件が突き付けたのは、「7分間をどう短縮するか」という問いだ。
センサーが鳴ってから犯人が消えるまでの数分を埋めるには、技術だけでなく、運用の柔軟さと情報の透明性が必要になる。
AI監視や国際捜査網の連携は進化しているが、それを動かすのは結局、人間の判断だ。ルーブルの王冠が戻る日はまだ見えない。
しかし、世界の文化財を守る戦いは、すでに次のステージへ進んでいる。
美術館という“静寂の砦”の裏側で、いまも光と影の攻防が続いている。



