
静岡県伊東市の田久保眞紀市長が、自身の経歴に「東洋大学卒業」と記していたものの、実際には「除籍」だったことが判明した。学歴の取り違えはなぜ起こるのか。過去にも繰り返されてきた“学歴詐称”という問題の裏にあるのは、日本社会に根深く残る“肩書き信仰”と、バレるとわかっていても嘘をついてしまう人間心理のようだ。
「卒業」のはずが「除籍」だった…
田久保眞紀市長が、自身の学歴について虚偽の経歴を記載していた疑いが浮上している。市の広報誌には「東洋大学法学部卒業」と明記されていたが、実際は「除籍」だったという。田久保市長は7月2日の会見で、「大学時代は自由奔放な生活をしており、正確な通学期間も答えられない」と釈明したが、SNS上では「卒業してない自覚はあったはず」「言い訳として苦しすぎる」と批判が噴出している。
この報道に、既視感を覚えた人も多いだろう。過去にも政治家や著名人が「学歴詐称」で信用を失い、辞職に追い込まれた例は少なくない。だが、なぜ人は、今や事実確認が容易な時代に、「バレる嘘」をついてしまうのか。
なぜ繰り返す?学歴詐称は「例外」ではなかった
過去にも、公人による学歴詐称はたびたび報道されてきた。
たとえば2007年、前防衛大臣・久間章生氏の「ハーバード大学留学」誤記問題では、実際は短期の語学研修だったにもかかわらず、誤解を招くような記載が長年続いていた。その他にも、芸能人や経営者の経歴詐称が発覚するたびに、社会的批判が高まってきた。
共通しているのは、「学歴」がいまだに社会的信用の象徴として強く機能しているという点だ。とりわけ公職にある者は、「どこで学び、何を修めたか」が人物の価値を測る“入口”となるようだ。
“卒業したつもり”は本当か?心理学が示す2つの答え
この問題を心理学の視点で見ると、いくつかの理論が浮かび上がる。ひとつは「社会的望ましさバイアス(Social Desirability Bias)」だ。これは、他者から良く思われたいがために、自分を実際よりよく見せようとする心理傾向を指す。
履歴書に“卒業”と書くことは、単なる事実の記述ではなく、「自分は社会的に期待される立場にふさわしい人間である」と示したい欲求の現れと解釈できる。特に日本社会では、大学卒業の有無が「人格や能力」の評価と安直に結びつけられるため、その“記号”を身につけることで安心感を得ようとする。
もう一つ挙げたいのが、レオン・フェスティンガーの「認知的不協和理論(Cognitive Dissonance Theory)」である。これは、自分の信念や価値観と、現実の行動が矛盾したとき、人はその“ズレ”を埋めようとする傾向があるという理論だ。
田久保市長が「卒業したつもりだった」と述べたように、自分の過去を「そうだったはず」と都合よく再構築し、心の不協和を解消する。このプロセスを何年も繰り返すうちに、本人の中では“卒業”という虚構が事実と化してしまう。そして次第に、人は嘘をついているという自覚さえ、無意識のうちに薄めていくのだ。
もちろん、田久保市長の真実がどこにあるのかはわからないが…。
バレるとわかっていても、人はなぜ肩書きを盛るのか?
現在では、学歴の真偽を確かめることは難しくない。大学への照会、名簿の閲覧、SNSやOB情報での裏取りは簡単にできる。にもかかわらず虚偽が後を絶たないのは、「今さえ乗り切れれば」という楽観的な心理と、「自分は悪意でやっているわけではない」という自己正当化が作用するからだ。
また、日本の公職選挙制度では、経歴の虚偽に対して明確な罰則がない場合もある。そのため、「法的にはセーフ」という甘い認識が生まれやすい構造も背景にある。
しかし、信頼は数字ではなく、言葉でもなく、“誠実な姿勢”でしか得られない。虚偽が判明した時点で、どれだけの実績があっても、その人物に対する信頼は一気に崩れ落ちるのだ。
肩書きより「中身」の時代へ。問われるのは誠実さ
本質的には、学歴詐称が繰り返される背景に、日本社会の「学歴信仰」がある。とくに地方政治や行政では、「有名大学卒」というレッテルが、票や支持に影響する要素として今なお機能している。
しかし、これからの時代に求められるのは、学歴という形式より、「何をしてきたか」「どのように考え、責任を果たすか」といった中身だ。たとえ途中で挫折していたとしても、正直に語ることで得られる信頼はあるはずだ。
学歴を偽るのは、他者のためではなく、自分の不安や期待の投影だ。だが、社会はその“嘘”を見抜く速度を早めている。今後、公人にとって重要なのは、「学歴を持っていること」ではなく、「学歴を正直に語れること」である。