役員個人を“億単位”訴訟から守る「最後の盾」

企業の経営陣が法的責任を問われるリスクに備え、「会社役員賠償責任保険」、いわゆるD&O(Directors & Officers)保険の加入が急増している。
D&O保険とは、役員や取締役が職務執行に関連して損害賠償請求を受けた際、訴訟費用や賠償金を補填する保険制度だ。加入費用は企業が負担するケースが大半で、経営者にとっては「最後の防波堤」とも呼べる存在である。
背景には、東京電力福島第1原発事故をめぐる株主代表訴訟の動向がある。2022年、一審の東京地裁は旧経営陣に対し、総額13兆円余りという前例のない高額賠償を命じた。東京高裁は2025年6月、この判決を取り消したものの、役員が個人として法的責任を問われるリスクは年々高まっている。
過去の高額判決が保険導入を後押し
同様の高額賠償リスクは過去にも複数発生している。2000年、大和銀行(現りそな銀行)のニューヨーク支店で発覚した巨額損失事件では、大阪地裁が当時の取締役11人に計約829億円の賠償を命じた。最終的に和解で2億5000万円に減額されたが、訴訟の破壊力は明白だった。
2008年には、蛇の目ミシン工業(現ジャノメ)の元役員5人に対して約583億円の賠償命令が最高裁で確定したが、回収されたのは1億円強にとどまった。2000年のミスタードーナツ無認可添加物事件では、運営会社ダスキンの元役員2人に対する約53億円の賠償命令が2008年に確定。2人は自己破産に追い込まれた。
こうした判例が企業にリスク意識を植え付けた。東京海上日動火災保険の2022年の調査では、上場企業の約8割がD&O保険に加入しており、大半は企業が保険料を負担しているという。
フジテレビでも近年、不祥事が注目された。中居正広氏と元アナウンサー女性を巡る問題を受け、港浩一前社長や大多亮前専務理事に対し、監査役が損害賠償請求を検討していると報じられた。同社は親会社・フジ・メディア・ホールディングスを通じてD&O保険に加入しており、一定額の補填が期待されるが、制度には限界もある。
補償限度の壁 “9億円の日本”と“数百億円の米国”
日本のD&O保険の補償上限は、平均で9億5000万円、高くても40億円程度にとどまる。一方で、米国では補償額が数百億円に達する保険契約が一般的だ。この差は、制度の成熟度や訴訟社会としての土壌の違いに起因するが、グローバルに展開する企業にとっては死活的なギャップである。
米国のD&O保険は、Side-A(役員個人への補償)、Side-B(会社の補償金返済への補填)、Side-C(会社自体が訴えられた場合)という多層構造が一般的で、より柔軟かつ広範なカバレッジを実現している。さらに、Broad Form(DIC=差額補償)条項を加えることで、会社が補償できない場合でも、役員個人を守る仕組みが整備されている。
グローバル化で企業も“米国型”へ移行中
近年では、日本企業の間でも補償上限の引き上げやSide-A DIC条項の導入を進める動きが出始めた。とりわけ、海外での訴訟リスクを抱える多国籍企業や、M&Aを活発に行う企業では、米国基準への適合が迫られている。
米国では、環境訴訟や人権デューデリジェンス、株主による役員報酬への異議申し立てなど、多様なクレームがD&O保険の対象となる。保険料の上昇は一時的に見られたが、2024年現在では価格が安定傾向にあり、契約更新も活発化している。
一方、日本では保険料が低めに設定される代わりに、免責条項が厳しく、保険適用の範囲に不透明さが残る。SNS時代の現在、コンプライアンスやガバナンスの不備が瞬時に拡散し、企業の名声だけでなく経営陣個人の人生にも深刻な打撃を与えるリスクがある。
“最後の防波堤”としてのD&O保険の未来
最高裁によれば、全国の株主代表訴訟件数は2007年以降、年間34~106件で推移し、2024年には45件が提起された。件数自体は安定しているものの、1件あたりのインパクトが拡大する傾向にあり、D&O保険の役割はますます重要になっている。
日本企業にとって今後の課題は、米国型の高額補償・多層補償モデルへの段階的な移行である。それは単なる保険制度の話ではなく、企業の統治機構や危機管理体制の質そのものを映し出す鏡でもある。
役員保険は、もはや任意の「備え」ではない。激変する経営環境において、企業の持続可能性とトップマネジメントの命運を左右する“不可欠な基盤”として、再定義されつつある。