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追悼・アパホテル元谷外志雄会長 バブル崩壊もコロナも呑み込んだ82年の英雄譚

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アパ元谷会長
元谷外志雄さん 撮影:加藤俊(2017年)

「私が社長です」の帽子でお馴染みの妻・芙美子氏と共に、日本最大のホテルチェーン『アパホテル』を一代で築き上げた創業者、元谷外志雄(もとや・としお)会長が2月11日、82歳でこの世を去った。

誰もが不可能と思った瞬間にアクセルを踏み、危機を好機に変えてきた“アパの妖怪”とも呼ばれた男。筆者が生前、赤坂のオフィスで幾度となく聞いた肉声から、その規格外の戦略と英雄譚を紐解く。

 

赤坂オフィス「特殊な扉」の向こう側

訃報に接し、筆者の脳裏には、10年ほど前に通った東京・赤坂見附、アパグループ本社の独特な光景が鮮烈に蘇る。通されたのは、会長の執務室。そこには、一見して普通のオフィスとは違う特殊な自動ドアがあった。重々しい音と共にその扉が左右に開くと、目の前に美術館を思わせる絢爛豪華な調度品が静かに並ぶ。その重厚な背景を背負い、椅子に深々と腰を下ろしていたのが、元谷外志雄氏その人だった。

筆者は当時、何度かこの場所で元谷氏にインタビューをする機会を得た。彼はいつも、鋭く、しかしどこか悪戯っぽい少年のようでもあった。そして、自らが組み上げたビジネスモデルの優位性を語り出すと、止まらなかった。

「君、事業というのはね、単に技術や営業が得意だからといって成功するもんじゃない。資金繰りが続かずに倒れる企業がいかに多いか。事業の根幹は『金融』にあるんだよ」

その言葉通り、元谷氏が築き上げたのは、単なるホテル業ではない。精緻に計算された「金融・不動産・ホテル」の複合体だった。

 

「一人膳」の少年が掴んだ、資本主義の正体

アパ帝国の原点は、石川県小松市にある。航空自衛隊の爆音が響くこの町で、元谷氏は病弱な父に代わり、幼い頃から家計を支えた。

取材中、彼は遠くを見る目でこう語ってくれたことがある。「父は結核で長く伏せっていました。食事の時は父だけが家族と離れて『一人膳』で、いつも新聞を読んでいた。私は長男として『自分が一家を守らねばならない』と痛感していましたよ」

小学生にして貸間の入居者募集や集金、屋根の雨漏り修理までこなし、「生業」の厳しさを肌で学んだ。父の真似をして新聞を読み漁り、独学で世の中の仕組みを吸収した少年は、やがて「技術や営業だけでは会社は潰れる。資金こそが命だ」と悟り、大学で経済を学びながら地元の信用金庫へ就職する。あえて金融機関の内部に入り、カネの流れを研究したのだ。

 

妻である芙美子氏(アパホテル社長)と出会ったのも、この信用金庫時代だ。労働組合の会合で出会い、起業前の1970年に結婚。当初は営業として活躍した彼女が、後に「私が社長です」のキャッチフレーズと共に会社の顔となり、元谷氏と二人三脚で歩むこととなる。

信金時代に学ぶ中で元谷氏が編み出したのが、今のアパの基礎となる「信用累積型経営」だ。

27歳で独立した際、社名をあえて「信金開発(現アパ株式会社)」としたのは、信用金庫の信用を背景にするためだった。さらに、当時は存在しなかった「長期住宅ローン」の仕組みを自ら開発し、サラリーマンが家を買える市場を創出した。

金融機関の論理を知り尽くしていたからこそ、彼は「カネの流れ」を自らデザインできたのだ。

 

「逆張りの美学」なぜアパだけが勝ち残れたのか

元谷外志雄という経営者の真骨頂は、世の中が悲鳴を上げている時にこそ笑う、その徹底した「逆張り戦略」にあった。アパの歴史は、経済危機の歴史とリンクしている。

あの部屋で元谷氏は、まるでチェスの盤面を解説するかのように、自らの勝利の理由を明かしてくれた。

【第1の勝機:バブル崩壊を予見】

1980年代後半、日本中が不動産バブルに踊っていた頃、元谷氏は保有していた土地を次々と売却し始めた。

「土地価格は収益還元法で見れば異常だった。必ず下がると確信した」

そう語る元谷氏は、東京本社を閉鎖して北陸へ撤退するという荒業に出た。社員からは猛反発を受けたが、直後にバブルは崩壊。キャッシュを手元に残した元谷氏は無傷で生き残り、暴落した土地を安値で買い漁った。

 

【第2の勝機:ホテルは「節税装置」】

元谷氏は利益が出ると、それを単に税金として納めることをよしとしなかった。注目したのが「償却」だ。分譲マンションで得た莫大な利益を圧縮するために、航空機やホテルの減価償却を活用する。

「ホテル事業は初年度の償却赤字が大きい。つまり、会計上の利益を消しながら、キャッシュフローを潤沢に残せる最高の装置なんだ」

ホテル王の顔の裏には、冷徹な投資家の顔があった。

 

【第3の勝機:頂上戦略】

そして極めつけは、2010年からの「頂上戦略」だ。リーマンショック後、金融機関が融資を渋り、不動産価格が底を這っていた時期に、元谷氏は手元の現金で東京都心の一等地を次々と購入した。

「皇居を取り巻く都心3区、駅徒歩3分以内」

この条件にこだわり、他社が縮こまる中でアクセルを全開にした。「将兵は必ず勝ちて、而(しか)る後に戦を求む」。孫子の兵法を愛した彼にとって、それはギャンブルではなく、勝つべくして勝つ戦いだったのだ。

 

「ピンチこそ最大のチャンス」伝説の逆張り

 元谷外志雄という経営者の真骨頂は、世の中が悲鳴を上げている時にこそ笑う、その徹底した「逆張り」と「強運」にあった。筆者が最も唸らされたのは、2007年のエピソードだ。田村水落設計の水落光男建築士が関与したホテルで、耐震強度不足が発覚。アパグループは激しいバッシングを浴び、銀行からは融資の引き揚げを迫られた。

泣く泣く虎の子の資産を売却して借金を返済したが、その翌年、リーマン・ショックが世界を襲う。 つまり、スキャンダルによって「強制的に高値で売り抜け」させられた結果、暴落時には手元に巨額の現金が残っていたのだ。

「あれで命拾いしたどころか、その資金で底値の土地を買いまくれた」

元谷氏は後にそう述懐している。天すらも味方につける、恐るべき悪運の強さだった。

 

コロナ禍での「一棟貸し」即決

記憶に新しいコロナ禍。観光業が壊滅的な打撃を受ける中、元谷氏は政府からの要請を受けるや否や、軽症者療養や入国者隔離のためにホテルの「一棟貸し」を即決した。新築の巨大タワー「アパホテル&リゾート〈横浜ベイタワー〉」までも差し出す決断の速さは、世間を驚かせたが、結果として安定した収益を確保し、医療崩壊を防ぐ一助ともなった。

進化するアパ、そして「継承」へ

 

晩年の元谷氏は、ホテル経営のデジタル化(DX)にも執念を燃やした。二次元バーコードをかざすだけで完了する「1秒チェックイン」、ルームキーを投函するだけの「エクスプレスチェックアウトポスト」。これらを導入し、オペレーションを極限まで効率化することで、驚異的な高稼働率を実現した。

創業以来の黒字経営。その卓越した手腕は、次世代へと引き継がれている。創業50周年を迎えた2022年4月、新体制へと移行。長男の一志氏が社長兼CEO、次男の拓氏が専務に就任し、元谷氏は会長として後進に道を譲った。

 一方で、彼が情熱を注ぎ続けたのが「言論活動」だ。

「二兎を追う者は二兎とも得る」

 

藤誠志(ふじ・せいじ)のペンネームで、月刊誌『Apple Town』に社会時評エッセイを32年にわたって執筆(2025年8月号で終了)。『報道されない近現代史』などの著書を発表し、「真の近現代史観」懸賞論文制度や「勝兵塾」を主催するなど、保守論客としても最期まで筆を振るい続けた。

元谷氏は強烈な保守論客としての顔も持ち続けた。「南京大虐殺はなかった」とする著書が中国で炎上し、ボイコット運動が起きた際も、筆者の前で彼は全く動じることなくこう言い放った。

「中国からの予約が減った? いや、その分、台湾や他国のお客様が増えて過去最高益になったよ。知名度が世界的になったおかげだね」

自らの思想を曲げず、批判すらも宣伝に変えてしまう胆力。それは、妻・芙美子氏が広告塔としてメディアを席巻し、その裏で夫が冷徹に戦略を描くという、完璧な役割分担によって支えられていた。

取材の終わり、元谷氏はよく若者に向けたメッセージとしてこう語っていた。

 

「知識を詰め込むだけではダメだ。それを経験と見聞で検証し、自分の『知恵』に昇華させなければならない。知識は他人のものだが、知恵は自分のものだからね」

石川県の工場の一角から始まり、世界のAPAを築き上げた巨人。赤坂のオフィスで、あの豪華な調度品に囲まれて不敵に笑っていた姿は、もう見られない。

通夜・告別式は近親者のみで執り行われたが、後日「お別れの会」が開かれる予定だ。激動の昭和・平成・令和を駆け抜け、日本のホテル業界の地図を塗り替えた稀代の戦略家。その安らかなる眠りを祈りたい。合掌。

元谷氏へのインタビューは下記BigLife21で。今回の話をより詳しく語ってくれています。

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ライター:

株式会社Sacco 代表取締役。一般社団法人100年経営研究機構参与。一般社団法人SHOEHORN理事。株式会社東洋経済新報社ビジネスプロモーション局兼務。週刊誌・月刊誌のライターを経て2015年Saccoを起業。 連載:日経MJ・日本経済新聞電子版『老舗リブランディング』、週刊エコノミスト 『SDGs最前線』、日本経済新聞電子版『長寿企業の研究』

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