
秋晴れの静岡地裁前。「冤罪の責任を問う」と記された白い横断幕が風に揺れた。
その布を支える弁護団の姿の中に、89歳の袴田巌さんの姿はない。
半世紀以上、死刑囚として拘置された時間が、彼の心を壊してしまったからだ。
10月9日午後、袴田さんの弁護団は国と静岡県を相手に約6億円の損害賠償を求める訴訟を静岡地裁に提起した。
訴えの相手には、警察・検察に加え、死刑判決を確定させた裁判所も含まれている。
「なぜ、冤罪は起きたのか」。その問いに正面から向き合うための、遅すぎた闘いが始まった。
再審無罪「ねつ造された5点の衣類」
2024年9月、静岡地裁は再審公判で袴田さんに無罪判決を言い渡した。
判決は、犯行時の着衣とされた「5点の衣類」について、捜査機関によるねつ造を認定。
「証拠の信頼性は失われている」と断じた。
一方、検察は控訴を断念しながらも「証拠ねつ造の事実は認められない」と談話を発表。
司法の判断と捜査機関の認識は、いまなお平行線のままだ。
弁護団は今回の国賠訴訟で、改めて「ねつ造の責任」を問う。
そして、それを見抜けず死刑を確定させた裁判所の過失をも明らかにしようとしている。
「死刑を待つ48年」奪われた時間と心
1966年8月の逮捕から無罪確定まで、およそ58年。
そのうち48年を、袴田さんは「死刑囚」として拘置所の中で過ごした。
判決を覆すことを許されぬまま、一日の終わりごとに「今夜、処刑が来るのではないか」という恐怖に震え続けた。
姉のひで子さんが面会するたび、彼の表情は少しずつ消えていった。
現在、袴田さんは「拘禁症」と診断され、意思の疎通が難しい状態が続く。
今回の6億円という請求額は、死刑執行の恐怖にさらされた精神的苦痛(約4億円)を中心に、失われた収入や介護費用も含めて算出されたという。
「司法もまた被告」異例の国賠訴訟
弁護団によると、今回の訴訟は再審事件として過去最高額の請求。
しかも裁判所を被告に含めるのは極めて異例だ。
訴状では、警察が「証拠を隠蔽・改ざん」し、検察が「違法を認識しながら起訴」したと指摘。
さらに裁判所が「ねつ造の可能性を見逃した過失」があったと訴えている。
提訴後の記者会見で、弁護団長の小川秀世弁護士は語った。
「刑事事件で無罪になっても、冤罪がなぜ起きたのかが検証されていない。
この訴訟は、過去を責めるためではなく、再び同じことを起こさせないための闘いです」
「冤罪は誰の上にも起こり得る」社会が問われている
今回の提訴を受け、SNSには多くの声があふれた。
「6億でも安い」「死刑が執行されていたら償いすらできなかった」。
一方で、「その賠償金は税金から出る」として、司法制度の再点検を求める意見もある。
冤罪は、ひとりの人生を奪うだけでなく、「法が人を守る」という社会の前提を根底から崩す。
この訴訟は、国の責任を問うと同時に、私たち一人ひとりが法の信頼をどう取り戻すかを問うものでもある。
正義は、終わりではなく始まり
袴田さんは、釈放から11年が経った今も、心の時間が止まったままだ。
だが、姉のひで子さんは言う。
「兄が苦しんできた意味を、次の時代につなげたい。それが、私たち家族の願いです」
静岡地裁前の風は冷たくなり始めていた。
その風の中で掲げられた「冤罪の責任を問う」という文字だけが、日本の司法に向けて、静かに、しかし確かに問い続けている。