
イギリスの推理作家協会(CWA)が主催する世界的なミステリー文学賞「ダガー賞」の翻訳部門で、日本人作家・王谷晶(おうたに・あきら)の小説『ババヤガの夜』が受賞した。翻訳を担当したのはサム・ベット。日本人としては初の受賞となり、翻訳ミステリー界では歴史的な快挙といえる。
『ババヤガの夜』は、暴力団会長の娘・翔子を護衛することになった女性・新道依子を主人公に、暴力と孤独、そして女性同士の名付けようのない関係性を描いた物語だ。
物語にはアクションやスリラー的要素が盛り込まれているが、単なる娯楽小説ではない。登場人物たちの背後には、女性蔑視(ミソジニー)という社会的テーマが重く横たわっている。
書店で育った“本の子ども”が描く、リアルな女性たち
王谷晶は1981年、東京都出身。幼少期から両親が営む書店に囲まれ、自然と本に親しむ日々を送った。2012年にノベライズ作品でデビューし、以来、ミステリーから青春小説、フェミニズム文学まで幅広く執筆している作家だ。
LGBTQ当事者としてレズビアンであることを公言しており、自身の作品にもジェンダーやセクシュアリティをめぐるテーマが自然に組み込まれている。
短編集『完璧じゃない、あたしたち』では、さまざまな立場にある23人の女性たちのリアルな葛藤や違和感、孤独を描き、「“生きている感じ”のする女性たちを書きたかった」と語っている。
『ババヤガの夜』についても、「女性を主役にすると、日本ではどうしてもミソジニーにぶつかる。現実をリアルに描こうとすれば、避けて通れない」と語った。
“男社会”の中で、女性たちはどう生きるのか
『ババヤガの夜』の舞台となるヤクザの世界は、力や上下関係を重んじる“男社会”だ。その空間に生きる女性・依子は、命のやりとりが日常の暴力の世界で、「護る」という行為にこだわりながら生きる。
物語には、異性愛中心主義や性役割の押し付けといった“社会のミソジニー”が色濃く反映されている。だが王谷は、それを告発として描くだけでなく、むしろその中で女性同士が手を取り合うことの意味を問いかける。
依子と翔子の間に生まれる連帯や共感、あるいは説明しきれない感情の交流は、“女が生き抜くための物語”として読む者の胸に深く残る。
海外で評価される日本の女性作家たち
王谷晶の受賞は、ここ数年続く「日本女性作家の翻訳文学ブーム」の中で生まれた必然ともいえる。今回、同じくダガー賞の最終候補に選ばれた柚木麻子の『BUTTER』は、2024年にイギリスの翻訳小説売上ランキングで1位を獲得した作品である。
この背景には、英国の読者たちが日本文学に見出す魅力の変化がある。詩的な文体や静かな感情表現は「ヒーリングフィクション」として高く評価され、「孤独や人間関係、仕事の問題などを考えるきっかけになる」との声も多い。
また、村田沙耶香、川上未映子、小川洋子など、既に世界で高い評価を得ている作家たちに続く形で、王谷晶が登場したことも、日本文学が“未発見の宝箱”と捉えられている流れの中で自然なことだった。
ローカルな物語が、グローバルに共鳴する時代
審査委員長マキシム・ジャクボウスキは、『ババヤガの夜』について「マンガ文化、ヤクザ映画、北野武、LGBTQの要素が融合した独創的な作品」と評した。
つまり“いかにも日本的”な素材を集めた作品でありながら、その中に描かれる感情や関係性は、文化の違いを超えて読者の心に届いたということだ。
王谷晶は、「読んだ女性たちが“あるある”と感じてくれたのだと思う」と語る。
暴力の中で芽生える連帯、社会の中で見えなくされてきた女性たちの感情、説明しきれないけれど確かに存在する絆。そうしたものこそが、翻訳を通じて文化や言語の壁を越えて伝わったのだろう。
世界は今、ただ華やかな物語ではなく、静かで強い物語を求めている。王谷晶という作家は、その力を持っているといえる。そしてそれを見出したのは、日本ではなく、海の向こうの読者たちなのだ。