2024年12月5日、発起人である一橋大学の伊藤邦雄氏を中心に活動する人的資本経営コンソーシアムにおいて、第2回目となる総会が開催された。
日本企業の成長戦略の中核を担う「人的資本経営」ではデジタル化や多様性を背景に、企業経営と人的資本の融合が議論された。
人的資本が求められる背景
日本経済は30年にわたるデフレ経済から脱却の兆しを見せている。2024年春季労使交渉での賃上げ率は約30年ぶりの高水準に達し、国内投資額も増加傾向にある。
このような経済環境の転換期において、「人的資本」の重要性が再認識されている。
人的資本とは、企業が持つ人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上を図る経営手法を指す。
この考え方は単なる人事管理を超え、企業全体での戦略的な資源活用を意味するものであり、成長型経済の実現に向けた必須要素として位置づけられている。
日本企業が直面する課題は少子高齢化、グローバル競争の激化、AIやデジタル化の進展など多岐にわたる。
こうした背景から、人的資本への投資や、ジョブ型人事制度の導入、リスキリングといった取り組みが急務とされている。
人的資本経営コンソーシアムの概要と第2回総会の趣旨
人的資本経営コンソーシアムは、2020年の「人材版伊藤レポート」の公表を契機に設立された。
このコンソーシアムは、日本企業が人的資本経営を実践し、その重要性を広く認識させるためのプラットフォームであり、人的資本経営の可視化や実践方法の共有を目的としている。
第2回目となる総会では、「人的資本経営の深化と地方への波及」をテーマに、多くの議論が展開された。これまでの取り組みとして、2022年に発表された「ジョブ型人事指針」や「人材版伊藤レポート2.0」などが挙げられる。
これらの取り組みは、人的資本を中核に据えた経営を日本企業に浸透させ、成長分野への労働移動の促進や、賃金上昇を構造的に実現するための基盤を築いてきた。
今回の総会では、ジョブ型人事制度の導入事例や、リスキリングを通じた人材育成、人的資本と経営戦略の一体化といった具体的なテーマが取り上げられた。さらに、地方版コンソーシアムの展開を通じて地方企業へも人的資本経営を広げる意義が議論された。
経営者に求められる人的資本経営の哲学
第3回人的資本経営コンソーシアム総会の中で、発起人である伊藤邦雄氏(一橋大学CFO教育研究センター長)がモデレーターを務め、4名の経営者が人的資本経営への取り組みとその哲学を語った。
【パネリスト】
・磯崎功典 氏
キリンホールディングス株式会社 代表取締役会長CEO 最高経営責任者 グループ経営責任者
・北村吉弘 氏
株式会社リクルート代表取締役社長
・東原敏昭 氏
株式会社日立製作所 取締役会長 代表執行役
・吉田憲一郎 氏
ソニーグループ株式会社 取締役 代表執行役会長CEO
伊藤氏は冒頭、「人的資本経営は企業価値の持続的成長につなげるための経営そのものだ」と強調。人的資本経営が単なる人事部門の課題に留まらず、経営層が「なぜやるのか」を常に問い続けることが重要であると指摘した。
キリンホールディングスの磯崎功典会長は、「経営者の使命は企業を存続させ、持続的成長を実現することにある」と述べ、同社が2013年に掲げたCSV(Creating Shared Value)経営の実践を紹介した。
磯崎氏は、イノベーションの源泉は人材であり、無限の可能性を引き出すことが企業の成長に直結すると主張。全従業員が共感できる理念を掲げ、それを行動に移すことが人的資本経営の成功につながると語った。
続いてリクルートの北村吉弘社長は、デジタル化の進展に伴い求められるスキルが急速に変化している現状を指摘し、同社がバックキャスト(未来から現在を振り返る視点)を用いて10年後を見据えた人材戦略を展開していることを説明した。
AIが進化しても、人間にしかできない創造性やサービス提供力が重要性を増していくとし、社員のリスキリングを企業の成長戦略の柱に据えていると述べた。
日立製作所の東原敏昭会長は、過去に巨額の赤字を経験した同社の反省を踏まえ、人材の多様性を重視した経営を推進していることを明かした。「画一的な人材ばかりでは企業が持続的に成長できない」と指摘し、現在では社員の6割が外国籍という多様性の中で、主体性と共感力を持つ人材育成に注力していると語った。
また、社会課題を解決する企業であり続けるためには、個々の社員が社会課題を自分事として捉える主体性が鍵になると述べた。
ソニーグループの吉田憲一郎会長は、「人は意義を求める存在であり、会社の存在意義が腹落ちすれば社員は最大限の力を発揮できる」と語った。
ソニーが掲げるパーパスではクリエイティビティを重視しており、テクノロジーを基盤としつつ創造性が価値の源泉となると説明した。また、同社の無形固定資産が4兆円に上る中、その多くが人材に宿る知識や技術、情熱だとし、人的資本への投資が中長期的な企業価値向上に直結していると述べた。
伊藤氏は議論を総括し、「人的資本経営は単なる投資ではなく、企業の存在意義を問い直すものである」と結論づけた。
企業トップが人的資本経営を社会課題の解決と結びつけ、社員一人ひとりの力を最大限に引き出す経営を行うことが、日本企業の持続的な成長には欠かせないと強調した。
人的資本経営の課題と可能性
後半のパネルディスカッションでは、中山淳史氏(日本経済新聞社コメンテーター)をモデレーターに、3人のコンソーシアム会員企業の方に資本市場と連携した人的資本経営の意義や、具体的な実践事例が議論され、有識者の視点と企業の現場での経験が交差する形で、人的資本経営の具体化に向けた課題と可能性が共有される時間となった。
【パネリスト】
・三瓶裕喜 氏
アストナリング・アドバイザー合同会社 代表
・當麻 隆昭 氏
SCSK株式会社 代表取締役 執行役員 社長
・石塚忠 氏
日揮ホールディングス株式会社 代表取締役社長
アストナリング・アドバイザーの三瓶裕喜氏は、投資家の視点から人的資本経営を評価する際の重要なポイントを解説した。
人的資本に関する開示が進んでいる一方で、開示内容がプロダクトアウト型(企業内部の視点に偏る)に留まる傾向が見られる点を指摘した。
市場が求めている情報は、企業の人的資本戦略がどのように事業競争力や財務パフォーマンスに結びつくかであり、CFO(最高財務責任者)とCHRO(最高人事責任者)の考えが”シンクロナイズド”されていることが鍵になると述べた。
また、人材が成長するのには時間がかかるということから、「人的資本経営の取り組みはタイムラグではなくリードタイムとして捉えるべきだ」とし、人的資本に関連するKPIが将来の企業経営の成果を示す先行指標となることを強調した。
SCSK株式会社の當麻隆昭社長は、ITサービス業界における人的資本経営の実践例を紹介した。
同社は社員一人ひとりのスキルを可視化するために独自の専門性認定制度を導入し、技術者のキャリア形成を支援している。長年にわたる働き方改革やダイバーシティ推進を通じて、社員が成長しやすい職場環境を整備してきたことが、企業の収益力向上に繋がっていると述べた。
また、當麻氏は「社員が成長できる職場環境をきちんと提供していくことがとても大事で、それがないと従業員は職場から離れてしまうことになる」と語り、職場環境の魅力が社員の意欲を引き出す重要な要素であると指摘した。
日揮ホールディングスの石塚忠社長は、エンジニアリング人材における人的資本経営の課題を明らかにした。同社ではプロジェクトマネージャーやリードエンジニアといった高度な専門職が事業の成否を左右するため、これらの人材の育成が最重要課題とされている。
石塚氏は、「技術力だけでなく胆力や交渉力を備えた人材を育てるには実践の場を与えるしかない」と述べ、若手社員に早い段階で大規模プロジェクトを経験させる取り組みを行っていると説明した。
また、新分野への進出が求められる中で、既存分野での成功体験がイノベーションを妨げる「イノベーションのジレンマ」に陥らないよう、人材育成戦略の見直しを進めていると語った。
議論の最後に、三瓶氏は「人的資本経営の成果を示すには、インプット(人材投資)からアウトプット(人材価値の向上)を経て、最終的にアウトカムとして事業競争力や生産性向上に結びつけることが必要だ」と締めくくった。
また、CFOとCHROの連携が人的資本経営の成功に不可欠であると改めて強調し、企業が投資家との対話を深めながら取り組みを進めるべきだと提言した。